零れる夜

今村 壱生

第一章 疑惑と邂逅

1

 白石(しらいし)(れい)(いち)は思い出す。自分には、わからないことが多い。
 それは、己が知らないことといってもいいだろう。
 それは、これまで何も明らかにしてこなかったことの代償かもしれない。
 臆することなく他人にものを尋ねられる、というのは自分の長所だろうな、と白石は思う。いや、自分でそう認識しているだけである。こうやって長短で切り分けられるほど、人間の思考や行動は、単純ではないかもしれない。
 白石の場合、ものごとを難しい方に考えてしまう。それはある一面では短所だろうか。
 ある人にとっては正義、また別の人にとっては悪。小さなことでも、良い悪いの判断は、結局は個人に依存する。この認識に間違いはないだろう。
 主観過ぎる思考は危険だ、と白石は思う。なにも見えなくなってしまう。いまどこにいて、なにをしているのか、それすらも曖昧にする力がある。
 そして、自身を客観的に捉えるとき、いつもイメージするのは、斜め後方からの視点。もうひとりの自分がいるような、矛盾を伴う認知。白石にはこれができる。
 だが、いろいろな人がそれをできるときく。
 自分も一大勢の例外ではないようだ、と白石は認識する。こうやって大衆と紐付いている、という安心感を、人は無条件に享受している。それは、現在の世界の在り方であり、人間の問題ともいえる。所詮、社会とは、個人の集まりに他ならないのだ。

2

 さて、白石には、わからないことが多い。
 喫緊の問題としては、本当にこの店に入ってよいのかどうか、なのだが……。あいにく、周囲には尋ねられそうな人がいない。
 そう、誰もいないのである。
 というのも、白石は現在、広島市内にある喫茶店の前にいる。細い路地を少し進んだ場所に、いきなり出てくる店だ。もちろん、店は動かない。店からすると、いきなり出てくるのは自分の方だろう、と白石は考えた。それは当然である。それなのに、こんな表現になってしまう。そんな思考を巡らせる脳の電気信号。ふっと息がこぼれる。
 また、周囲に誰もいないことを確認する。
 嫌味のような静けさがこの夜を包んでいる。そして、思い出したように冷気が躰を伝う。
 左腕を少し上げ、時計を見る。十二時。正確には、十二時二分まえだ。一般的にいえば、夜中である。
 断りもなしに入ってよいのか心配になるほど、暗い外観。
 集合場所。
 特に躊躇はなく、入口の扉を引き開けた。
 本当に客を招く気があるのかと思えるほど、無駄に重い木製の扉だ。そして、入口付近で十秒ほど立ち止まった。なぜそうしていたのかは自分にもわからないが、大半の人間(この場合の人間とは、一般的な日本人である)がこの行動をするのではないだろうか。もちろん、そんな統計など取ったことはないが、なんとなく入りにくい雰囲気ではある。
 入口から奥に伸びる店内。奥行きにして十二メートルほどだろう。入口からすぐ左手に、二人がけの四角いテーブルが一つある。右手がレジ、その奥に厨房らしき空間があるようだ。一番奥の右手からレジの手前まで、一繋ぎの黒いソファが鎮座している。そのソファに沿う形で、小さな丸いテーブルが六つ置かれている。
 淡い照明が灯っている。
 壁には絵が幾つか掛けられているが、風景画ということしかわからない。金のような銅のような、くすんだ色の額縁が共通点だと認識できる程度である。
 目の慣れない照明の下、ジャズか何かの音楽が流れている。この時間帯には相応しくない気がしたのだが、それは主観というもの。自分の考えがすべてだと思えるほど、傲慢ではないつもりだ。
 白石はとりあえず、一番奥のソファに座った。
 客どころか、店員すらいないのではないか。不気味なほど静まり返っているが、相変わらず、陽気な音楽だけが聞こえてくる。
 こういうときに、誰もいない空間に対して声をかけられるほど白石は強くはない。そう、昔からそうなのだ。
 生まれた瞬間からいまこの瞬間まで、脈々と続いている一個の人格。細胞は日々生まれ変わる。生まれたときに持っていたものは、もうなにも残っていないはずなのに、記憶は引き継がれる。不思議でならない。この躰のどこに、記憶はあるのだろう。そして、我々はどこから来たのか。
 白石は意識の深度を上げる。二秒ほど、深く潜っていた。
 悪くない静けさだ。静かな場所は、心地がよい。
 ジャケットを脱ぎ、濡れたように黒々と光るソファに置く。そして、この場所に来た経緯を、目を瞑って思い出す。

3

 友人に呼び出されて、この場所までのこのこやって来た。
 突然電話がかかってきたのだ。
 電話とは、いつも突然鳴り響く。知的思考力を持った人間が作ったとは思えないほど、受け手に失礼な機構である。白石は、日頃からそう感じている。
 その電話があったのは、十一時三十分。自宅で読書をしている最中だった。
 ディスプレイを見て名前を確認し、スマートフォンを手に取る。
「もしもし」白石は答える。
 相当ぶっきらぼうな声だっただろう。
「もしもし、川崎だけど」
 白石の友人の、川崎稚香馬である。彼は、電話口でいちいち名乗る。毎回だ。律儀なことである。
「うん、だろうね。どうしたの? こんな夜に」
「とても不機嫌そうだね。まあいいや」気にも留めない様子で川崎が言った。「強いていえば、相談。消極的にいえば、報告かな」
 意味がわからない。言葉の使い方が間違っていそうだが、面倒なので指摘はしない。
「なんの相談?」
「電話じゃあれだからさ、G線まで来てくれない? 場所は知っているよね?」
「ジーセン? どこ? 知らないよ」持ち手を入れ替えてきく。「え、これから?」
「ちょっと、いまからメッセージを送るよ。美味しいコーヒーが飲めるからさ。いいだろう? 三十分後の十二時に集合で。それじゃあよろしく」
 一方的に電話を切られた。小さく舌打ちをする。
 すぐに川崎からメッセージが届いた。本文には、G線とやらの地図だけが表示されている。場所を確認し、画面をロックする。
 読みかけの本に栞を挟み、白石は立ち上がる。思わず溜息が出た。
 川崎にいきなり誘われることは幾度かあったが、今回はかなり久しぶりだ。具体的には、四ヵ月ぶりになる。
 車のキーを手に取る音で、エルが目を覚ます。彼女は眠りが浅い。睡眠の深度を測ったことはないが、少しの物音に気が散るようだ。
 二ヵ月まえに五歳を迎えた彼女に、「行ってくるね」と声をかける。意味は伝わっただろうか。小首を傾げてこちらを見ている。
 触れたくなり、側まで行く。ソファの背凭れの部分が、彼女の特等席だ。
 ソファに腰を下ろす。
 豊かなグレーの毛を撫でる。頭から首、背中から尻尾までを何度も。
 しばらくそうしていると、彼女はやがて、眠りに就いた。
 ふさふさの口髭が、なんとも愛らしい。明日はちょっと遠くの公園まで連れて行こうと、勝手に計画を立てる。ドイツにルーツを持つ彼女は、寒い季節が得意らしいから文句はないだろう。
 音を立てないように腰を上げる。そして、ジャケットに袖を通しながら白石は思い出す。今日が十二月二十四日だということを。

4

「うー、やっぱり寒いねえ。あれ、紗由さんは?」
 そう言いながら川崎が姿を現したのは、十二時を五分過ぎた頃だった。
「誰? 知らないけれど」
 いきなり呼び出され、待ちぼうけを食らった上、いまだコーヒーにありつけていない状況に、白石は少し苛立ちを覚えていた。時間には、少々厳しいのである。特に、人を待っている時間は、普段よりも余計に長く感じてしまう。
「ああ、この店のオーナーだよ」ハスキーな声で川崎が答える。「それより、そんなにイライラするなって。いきなり呼び出してすまなかった」
「うん、それはいいとして、その人いないの?」あたりを見渡しながらきく。「そもそも、営業中なのかな。看板のライト、灯っていなかったし」
 言い終わる前に、川崎は厨房へ向かっていた。紗由さんなる人物は、川崎の知り合いなのだろう。直接呼びに行ったのかもしれない。白石が店に入ってからの数分間、物音ひとつ聞こえなかったが、本当にいるのだろうか。
 少しして川崎が厨房から出てきた。その後ろに小柄な女性がいる。歳は白石と同じくらい、もしくは下かもしれない。腰からエプロンを下げ、髪を後ろで一つに結んでいる。大きな目が印象的だ。
「えーっとね、彼女が鐘谷紗由さん。初めてだっけ?」川崎が質問する。
「うん、初めてだね」友人を少し睨んで答えた。そして彼女の方を見る。「どうも初めまして。白石零一です。川崎の友人です」
「鐘谷紗由です」完璧ともいえる笑顔とともに、彼女は挨拶をした。
 しかしよく見ると、その目は充血している。もしかしてこの人、さっきまで寝ていたのか。
「あなたのことは知っていますよ、白石君」彼女は言葉を続ける。「そうそう、なにか飲まれますか?」
 なぜ自分のことを知っているのか、と尋ねたかったが、それをきくことは、なぜか憚られた。
 店内は暖房が効いている。しかし、躰は冷えていた。早くなにか飲みたい。
「あ、ではコーヒーを」
「俺もコーヒーを下さい」
「はーい。ちょっと待っててね」鐘谷は、悠然と厨房に消えた。
 思い出したようにジャズが聞こえてくる。いや、いまはクラシックか。ピアノ曲は好きな白石である。これは、ドビュッシーの「夢想」だ。
「ねえ、あの人誰なの? 僕のことを知っているようだけれど」白石は、小声で川崎に問いかける。
「逆に、お前が知らないってことに驚きを禁じ得ないよ」オーバーな身振りで川崎が言う。「うん、大学の先輩だよ。一つ上の」
「あ、そうなんだ」
「除夜の鐘の鐘に、山谷の谷。糸へんに少ない、由来の由」
「へえ」
「反応薄いなあ。彼女、有名だよ」
「ふうん。どこで?」天井の照明を見上げながら答える。
 照明の数は少なく、充分な明るさとはいえない。隅の方はほぼ見えないほどである。
「そりゃあ、H大に決まっているだろう。もう、みんなの注目の的。お金持ちだし、美人だし、頭良いし」誇らしげに川崎が言う。
 なぜお前が誇らしげなのか、と問いたくなったが、白石は我慢する。しかし、川崎の、彼女に対する評価の二つめには賛同だ。
 我々が通うH大に、彼女はいるらしい。鐘谷という苗字は、珍しい部類に入るだろう。少なくとも、白石は初めて耳にする名前だ。しかし、自称情報通の川崎の言葉によると、彼女は有名人なのである。
 どの学校にも、有名人の一人や二人はいる。なぜそうなるのかは、いろいろ理由があるだろう。それらには、主として、否、すべて話題や噂が伴うものだ。そう、理由がなければ、有名にもなれないのである。
 事件性を孕んだ、ネガティブなイメージを伴う有名人。そちらの方が話題性に富み、有名になるには、一番手っ取り早い方法かもしれない。記憶に残る時間も、長いように思われる。今年の四月、白石は実際にそういった類の有名人に出会っている。
「もう一度きくけれど、なんで僕のことを知っているんだろう」
「そりゃあお前、文学部の白石っていったら、学内では噂になっているからだよ」川崎が目を見開いて言う。「お前、人付き合いが悪いから、そういう話も耳に入ってこないんだろうな。まあ、なにごとにも理由はあるよ。今年あった入学式の事件、お前が解決したって言っても、過言はないだろう? まあ、公にはなっていないけどさ。一部では、白石が真相を知っているっていうことが、周知の事実なんだよ。何を隠そう、俺が皆に広めたからね。だからお前も、一部では有名だって。ああ、自覚してくれよ。友だち甲斐がないなあ」
 そう言いながら、彼はようやく隣のソファに座った。頭の後ろで手を組み、深々と背に凭れる。長い足を組みながら、ゆっくりと目を瞑った。身長とは見合わない、大きな足に目を留める。彼は、自称スニーカーマニアだ。いつも奇抜な靴を履いている。
「いや、だからさ、その件はもういいって」白石は呆れながら返事をする。
 四月から、もう八ヵ月が過ぎようとしている。しかしどういうわけか、四月はまた来るのだ。
 やがて、良い香りが漂ってきた。待ち侘びたコーヒーである。
「お待たせしましたぁ」鐘谷が厨房から姿を現した。
「うーん、相も変わらず良い香りだよねえ」
「ありがとう」
 鐘谷が、お盆から三つのカップをテーブルに並べる。白石が座っているテーブルに二つ、川崎のテーブルに一つ。サーブした当人は、白石の向かいに座った。
 カップをテーブルに並べる際、彼女の左腕の時計がちらりと見えた。小さな文字盤はとてもシンプルで、腕時計というよりも、ただのブレスレットだと思ったほどである。時刻を確認するという目的には適さないだろうな、と白石は余計な思考を繰り広げた。
「あれ、お店はいいんですか?」白石は尋ねる。そして自分の時計を見た。
「うん。営業は十一時までだから、お客さんは来ないよ」鐘谷は、エプロンを外しながら答える。「今日はちょっと、特別かな」そして、カップを両手で包み込むようにして持った。
 もちろん、そんなことは初耳、初知りだ。それで彼女は、先程まで寝ていたのだろう。申し訳ないことをした、と思う。もちろん、寝ていたかどうかは知らないが。
「えっと、僕は、こいつに呼び出されて来たんですけれど…︙。お店を閉めるのなら、これを飲んで、すぐに出ます」
「いえ、いいのよ」カップに口をつけ、鐘谷は続ける。「私も川崎君から連絡があってね、今から行っていいかって。いろいろあって、まあ、仕方なく了承したの」彼女は微笑んだ。
「おいおい、どういう了見だよ」白石は言う。「営業時間、知っていたんだろう? なんで言ってくれなかったの。どおりで、入りにくかったわけだ。呼び出した理由も、まあどうせ大したことはないだろうし。なんとなく想像がつくよ」
 液体のウェットさに比べ、少々ドライな発言かな、と白石は一瞬考える。
 呼び出された理由の、何通りかのシチュエーションがすぐに思い浮かんだが、どれも似たようなものだった。彼を取り巻く環境と、今日の日付によって導かれる。
 しかし、特に興味はないので、コーヒーの香りを堪能することに専念した。
「うん、まあそうなんだけどさ」川崎は苦笑を浮かべる。「白石の長年の友人ってことで、俺も少しは有名になったと思うんだけどなあ、いろんな場所で。まあ、いいや」
「あの、鐘谷さん」その有名人の言葉を無視して、白石は有名人に質問する。「貴女がここの店のオーナーだって川崎から聞いたんですけれど、そうなんですか? 僕たちのひとつ上ってことは、三年生ですよね?」
「答は二つともイエス」鐘谷は即答する。質問を予測していたようだ。
「ふうん。どういうことか、ちょっとわからないですけれど、大変ですね」
 オーナーをやりながら大学に通っているのか。いや、その逆だろう。学生が本分であり、片手間に喫茶店のオーナーをやっているのか。もしそうならば、片手間でできるほど、店の経営というのは容易いものなのか。どういった経緯でそうなったのか。両立できているのか。そういった疑問が頭に浮かんだが、きいても特に得られるものはなさそうなので、質問事項から削除する。
「いや、私は名義だけだからね」首をゆるく左右に振り、鐘谷が言う。「実際には、叔父がお店を運営しているの。まあでも、責任はあるつもり。それで、叔父が店を留守にするときなんかに、たまにこうやって手伝いに来るのだけれど。私、コーヒーを淹れるのが好きみたい。冷めないうちに、飲んで」
「はい」そう言い、白石はようやく、目の前の黒い液体を飲むことができた。
 ほどよい酸味を感じられ、溜息が出る。なるほど美味しい。コーヒーは熱いものに限る。そして、絶対に、余計なものは入れない。
 川崎はすでに半分ほど飲んでいる。口の中は大火傷だろう。まったく味わっていないのではないかと思える。一度そういった類の質問をしたことがあるが、味わっているよ、とだけ答えられた。
 彼も、コーヒーになにかを入れる習慣はない。相談とやらの内容を整理しているのか、静かだ。
 川崎とは中学で出会った。同じクラスになったことはないし、どういう経緯で仲良くなったのかは、覚えていない。ただ、気づけばずっと関係が続いている。高校、大学も同じになり、出会ってから早くも八年が経っている。
 白石は、川崎以外に、友人と呼べる友人はいない。それとは対照に、彼は交友関係が広い。詳しく知っているわけではないが、話の端々に、その傾向が伺える。それは、彼の人懐っこさ、もしくは人当たりの良さに起因しているだろう。
 笑顔が上手い、と白石は評価している。上手いというのは、自然かつ適切に笑えている、という意味である。特に女性に対しては。
 そして、彼の周りには、性別関係なく自然と人が集まるようだ。これは彼の持つ性質だろう。そしてこの人が集まる現象を、白石は勝手に「ハチ公前」と名付けている。
「で、相談ってなに?」隣に座っている忠犬にきく。「電話じゃ話せないような内容なの? 今日は一応、クリスマスイヴなんだけどなあ。いや、もう二十五日だね。そんな日に、電話一本でのこのこやってくる僕も僕だけどさ、相当暇だと思っているね?」
 この友人に対しては、ときどき、棘のある物言いをしてしまう白石である。
「そうそう、きいてよ」テーブルに身を乗り出して、川崎は言う。視線はずっと鐘谷の方にある。「だいたいわかっていると思うんだけどさあ。ドタキャンされちゃってね。あーあ、今日、楽しみにしてたのになあ。うん、昨日だけれども。これ以上の土壇場はない、ってくらいの土壇場だよ。わかる? わかります? この惨めな気持ちが。聖なる夜に、ドリミネーションを見に行こうって誘ってきたのは向こうなのにさ。あの輝きはいいよねえ。白石、ドリミネーション見たことないだろう?」一気にそこまで喋り、白石の方を向く。
 後半の質問は無視された。肯定と受け取ってよさそうだ。忌々しい。
 〈ひろしまドリミネーション〉とは、毎年十一月下旬から十二月下旬にかけて開催される、展示物のライトアップだ。イルミネーションである。平和大通りなどを含む広島市中心部で、約百五十万の電球が灯る。
「あるよ」
「げ、マジ?」川崎が驚いた顔をする。身を引いた反動で、黒縁の眼鏡が少しずれた。手の甲で位置を直す。彼のこの仕草は、中学からずっと変わらない。
 向かいの鐘谷は、くすくすと笑っている。
「子どもの頃にね。それに、平和大通りを通るときには、どうやっても見えるだろう。そういう意味なら、毎年見ているよ」軽く答える。「そりに乗ったサンタクロースが、道路を通るよね。トナカイじゃなくて、なぜか白い馬だけれど」
「私も、そのサンタクロースは見たことある。白い馬も」鐘谷が言う。
「俺もある。有名じゃないかな?」川崎はテーブルに左肘をつき、手のひらで左頬を支える体勢をとっている。「馬って、軽車両に分類されるらしいね。自転車と同じ。だから、道路交通法違反でもなんでもない。だけどさ、車を運転していて、隣に馬が並んだらびっくりするよね。それが原因で、事故が起きないか心配だよ」
「馬の体長によるけれど、サイドウィンドウで見える範囲では、一瞬で馬とは認識できないんじゃないかな」白石は口を挟む。
「うん、それはそうだね。だけどまったく、そんなこと、誰も気にしないよ。こういった話の上では」
「そうかなあ」
「話を戻すけれど、軽車両の馬を高校のときに知ってね。それでさ、担任にきいたんだよ。どういう経緯でそうなったかは、もう忘れてしまったけれど。馬で通学していいですかって」
 初めて聞く話だ。
 しかも、相談とはもうまったく関係のない話になっている。川崎の話はいつもこうだ。脱線するというより、本線すらない。
「先生には、なんて言われたの?」笑いながら、鐘谷が先を促す。
 優しいな、と白石は思う。会話のテンポを維持するためには、こういった合いの手が必要だと、常々感じている。彼の場合、実行するのが面倒で、適当な相槌で終わってしまうことが多い。これは、彼女を見習わなければならない。
「もちろん、だめだって言われました」川崎は、元通りソファの背に凭れ、手を頭の後ろで組み直している。「だけど、校則には書いてないじゃないか、って言い返しましたよ。その後も何回かやり取りがあって、結局その話はすぐに終わったんですけれど。まあ俺も、もちろん本気で言ったわけじゃなかったので、担任も面倒だったでしょうね。適当に流されていたし。それが、二年生のときだったかな」
「へえ」適当に相槌をうつ。
 もう実行に移せていない。諦め、カップに口をつける。
「それでさ、びっくり。次の年の生徒手帳に、〈馬での通学禁止〉の項目が追加されていたよ」川崎は笑いながら喋っている。「だからK高の校則は、馬を探すためにみんながちゃんと目を通していてね。学校側としては、してやったりって感じだったろうなあ。いまもあるかは知らないけれど」
 白石は、川崎を観察する。いつも楽しそうに喋るな、と思う。彼が不機嫌になったところ、もしくは周りにそう認識させるような言動は、見たことがない。少なくとも、彼と白石以外の誰かがいる場面では。殊勝なことである。
「インフルエンサーだね」鐘谷が頷きながら言う。
「そうなんですよ、俺。周りに影響与えまくりで」
 インフルエンサーってなんだろう、と白石は考える。少なくとも、ウイルスではないはずだ。と、一瞬の思考に無駄なエネルギーを使う。いまので、夕方に食べたチョコレート分くらいは、消費できただろうか。
「インフルエンサー」白石は小さく呟く。
 会話に出てくる知らない単語の意味を、脳内で勝手に展開する。後で調べて、そのギャップを楽しむ。正確に推測することは、ほとんどできない。
 次は、目の前の鐘谷を観察する。躰が温まっているのか、頬が少し赤みを帯びている。いや、先程笑っていたからだろうか。
「ところでさ、白石は昨日、なにをしていたの?」川崎が白石の方を見る。
「なにもしていない。本を読んで、エルの散歩に行った。三回」白石は正直に答える。
「うわあ。相変わらず、植物みたいな生活をしているね」カップを持ち上げながら、川崎が言う。「ユズの方が、もっと生命的な活動をしているよ。そういえば、あの白い花は、どうやって生まれるんだろうね。まあいいや。エルと遊ぶのもいいけどさ、もっと人間に興味を持った方がいいよ。特に、女性に、かな」
「エルは女の子だよ」白石は真顔で言う。
 川崎と鐘谷が、同時に吹き出す。川崎はコーヒーをこぼしかけていた。鐘谷は、エルのことを知っているようだ。川崎が話したのだろうか。
「白石君、面白いね」
「でしょう? こいつ、天然なんですよ。自覚はしていないだろうけれど。で、俺が興味あるのは、紗由さんがなにをしていたかってこと。白石は前座です」
「私は、朝からずっと大学にいたよ」少し驚いた目をして鐘谷が言う。「ちょっとやらないといけないことがあってね。家に着いたのが、五時過ぎだったかなあ。だから特に、なにもしていないよ。そうそう、六時から店を留守にするから来てくれないかって、叔父から連絡があったのもそのくらい。いきなり呼ばれることが、たまにあるの。慌てて家を出たんだけれど、割と家から近いからね、ここ」
「熱心ですね、本当に。いやあ、感服しますよ。さすが有名人だ」川崎が皮肉っぽく言う。
「どう? 期待に応えられたかしら?」首を傾げながら、鐘谷は上品に微笑む。
しかしなぜかその顔は、少し寂しげに見えた。
「はい!」川崎は、小学生のような返事をする。
「予定がないといけないって思っている方が、どうかしていると思うよ」白石は投げやりに言う。「いつからそうなったんだろう。集団心理みたいなものかな。クリスマスが近づくと、妙にそわそわした雰囲気が漂うことは否定できない。誰かとともに過ごすことが正義、ってね。どこまでが自分の意志で、どこからが社会の意志なのだろう? 気づかないうちに、動かされているということかな。それもまあ、与えられた幸せかもしれない」
 五秒ほど沈黙。
「いちいち難しく考えすぎなんだよ、白石は」
「そうかなあ」
「そうだと思うね、俺は」
「ふうん」
「長年のつき合いってやつ? 考えていること、手に取るようにわかる。一石二鳥かな」
「気持ち悪いなあ」白石は思わず言う。「あと、一石二鳥の使い方、周りに影響を与えるほど間違っているよ」
「だから俺は、インフルエンサーなんだって」
「あ、そういう意味なの?」
「知らずに使ったのか? まあ、これも一石二鳥じゃん」
「だから……」
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」突然鐘谷が呟く。
「え、なんですか?」川崎がきき返す。「貧弱な広告?」
「もしかしたら、川崎君の使い方が合っているのかもね。私たちは、燕と雀」
「なるほど」白石は頷く。
「どういうことですか? なんて言ったの?」川崎は、白石と鐘谷の顔を交互に見る。
 この表情、傑作である。
「いや、なんでもないよ」鐘谷は笑っている。
「川崎は、鵜ですかね」
「ウ?」川崎は蛸のように唇を窄めて、前に突き出している。
「そして、鐘谷さんは鵜飼い」
「え、私が?」
「そうですよ。鵜飼いでなければなんだろう……」
「ちょっと、俺を差し置いて会話をするの、やめてくれるかな」川崎が赤くなっている。
「十月は英語で?」鐘谷が川崎の方を見て言う。
「オクトーバー? なんでそんなことを聞くんですか?」
「人を動物に例えることが、よくあるじゃない?」鐘谷が斜め上を見て言う。「二人は、なにに例えられることが多い?」
 話題の切り替え、テンポが早い、と白石は感じた。これは頭の回転速度に起因しているのだろうか。
「えっと、俺は犬ですね」川崎がすぐに答える。
「うん、そんな感じがするわね」
「どんな感じでしょうか?」
「いや、特に意味はないよ。相槌って感じかしら」鐘谷が微笑んで言う。
「忠犬ハチ公って、犬種はなんだろう?」白石は思いついたことを口にした。
「犬種? 気にしたことないな。柴犬とかじゃないの」
「私は秋田犬だと思ったけれど」
「意外とストーリーとか、知らないものですよね」白石は言う。
「そうねえ。確かに知らないかも」と鐘谷。
「なんで急に、忠犬ハチ公?」川崎が首を傾げる。
「いや、なんでもないよ」
「白石君は、なにに例えられることが多い?」
「そんな会話をした記憶が、ほとんどありませんね」
「お前、友達少ないからなあ」川崎が言う。いちいち一言多い男である。
「それは認めよう。まあ、猫が多いですかね」
「猫かあ」鐘谷が小さく呟く。
「当たり障りのない動物だなあ」
「そりゃあ、知らない動物に例えることはできないからね」
「なに当たり前のことを言ってるの?」川崎がこちらを見る。
 彼の言葉は、本気なのか冗談なのか、判断に迷うときが、たまにある。
「紗由さんは、なにが多いですか?」川崎は、すぐに視線を戻した。
「ハムスター」鐘谷が小さく答える。
「あー、そんな感じがしますね」
「どんな感じ?」
「相討ちって感じです」川崎は嬉しそうに答える。
 なるほど上手い、と白石は思った。これを言いたかっただけか。ただ、鐘谷の合いの手がなければ成立しなかったが。
「ふうん」少し目を細めて、鐘谷は川崎を見る。「上手いね」
「なんか、会話のイニシアティブがすべて、紗由さんにあるなあ」
「仕方がないよ、川崎。ここのオーナーなんだから」
「一応、この会の主役は俺だと思っていたんだけれど」
「話が脱線するからこうなるんだろう。全部話してみてよ」
「そうそう。伝えたいことは、自分から言わないとね」
「わかりましたよう」川崎は口を尖らせる。「まあでも、最初に喋ったことが、ほとんどすべてなんですけれどね。えっと、どこまで話しましたっけ?」
 彼の物忘れは、三歩めを踏み出したニワトリと同じくらい早い。決して鴻鵠の類ではなかったようだ。
「それじゃあ、お望み通り話を戻すけれど、そのふられた相手は、誰なの?」
「そうそう、そこだったね。うん、ひとつ歳上の人なんだけれどね。あら、もしかして、興味ある?」
水を得た魚だ。しかし、答が微妙にずれている。
「ないよ。だけど、理由は気になるね。その人にはきいたの?」白石は気にせず続ける。
「いや、急に連絡が取れなくなったんだよ」
「ふうん。ほかの日ならまだしも、昨日っていうのは少し引っかかるなあ」適当に話を促す。
「六時に待ち合わせの予定だった」コーヒーを飲み干して、川崎は言う。「その人とは、何度か食事に行ったことがある。そうそう、親同士が知り合い。どういう繋がりかは、知らないけれど。約束を反故にするようには見えないし、いままでもされたことはない。人って、見かけではわからないものだね」
「連絡が取れなくなったのは、何時?」
「五時十五分よりちょっとまえかなあ。直前まで、メッセージのやり取りをしていたからね。覚えているよ」彼はスマートフォンを取り出して操作する。「うん、やっぱり五時十五分だ」
意外に細かい男である。
「待ち合わせを予定していた場所は、どこ?」白石は次の質問をぶつける。
「駅前のSホテルの、ラウンジ。割と最近できたところだよ」
「へえ、そうか。場所はわかる。そこのコーヒーは、少し薄かった記憶があるな」いつか行ったときのことを思い出しながら、白石は目の前のコーヒーを飲む。
「そこのフロントかどこかに、俺宛に電話があってね。『今日は行くことができない』って、その人からだった。六時まえの、土壇場だよ。まったく、驚いたね。メッセージは駄目なのに、電話ならできるって、俺にはちょっと理解はできない心理だった」
 だった? 白石はなぜかそこに引っかかった。だが、顔には出さずに、「そう」とだけ答える。
「俺って、ドタキャンされることが多いんだ。白石は知っていると思うけれど。どう?」
「僕が知ったところで、どうにもならないんじゃないかな」
「知っている、理解してくれている人がいる、ということだけで、人は安心できるんだよ。根本的な解決には、何一つなっていないのに」
「そういうものかなあ」
「そういうものだよ」溜息とともに川崎が言う。「お前はいいよな」
「え、なにが?」
「ねえ、紗由さん。ドタキャンをする女性の心理って、どういうものなのでしょう?」黙って話を聞いている鐘谷に、川崎が質問をする。
「その心理に、性別は関係ないと思うけれど」鐘谷は即答した。
 白石もまったく同じことを考えていたので、ちょっと驚いた。
「あら、白石が言いそうなことですね」
 なかなかの慧眼である。いや、慧耳かもしれない。
「一つ挙げるとすれば、逃避じゃないかしら」大きな目を一度瞬かせて、鐘谷は続ける。「その行為に至る思考自体は、わからなくはない。理解できることと、実際に行動することは、まったく別だけれど。うん、予定というのは、必ずいまよりも時間的に未来にあるよね。そこに向かって行動していく、それがストレスになるんじゃないかしら。最終的には、そこに行き着いてしまうわけだから。行動の制約、思考の制約。一番は、時間の制約でしょうね。誰もが、自分の未来は自由に選択できると思っている。すべては幻想なんだけれどね……。だから、つまり、そのストレスからの逃避。解放と言っていいかもしれない。土壇場かどうかは、その予定と発生したタイミングの、時間的距離にある。それは、された側がどう感じるかによるでしょう」
 綺麗な発声だ、と白石は思う。これだけ理路整然と言葉が出てくるのは、頭がよく整理されている証拠だろう。川崎の、彼女は頭が良い、という発言を思い出す。
 思わず彼女を見てしまう。結んでいた髪はいつの間にか解かれ、いまは真っ直ぐに下ろしている。鎖骨あたりまである毛先は、少し内側にカールしている。前髪は目の上で切り揃えられ、魅力的な目元を強調しているようだ。綺麗な黒髪と対を成す白さを持った肌。小さく白いその顔は、川崎の方を向いている。
「逃避かあ。それなら少し嬉しいですね」
 嬉しい?
「それって、かなりポジティブに捉えていない? 川崎」彼の反応が意外だったので、白石は思わず口を挟む。意味をきき返すと思ったからだ。「要は、嫌われたってことだろう。なにかしたのでは?」
「なにかってなんだよ」
「たとえば、しりとりで〈る〉攻めをしたとか、唐揚げに、勝手にレモンを搾ったりとか。つまり、心当たりはないのかってことだよ。これまでの言動を思い出してみて」
「俺はね、白石」口角を少し上げて、川崎が言う。「しりとりをするときは、いつも〈す〉で攻めるし、唐揚げに勝手にレモンは搾らない。そもそも、レモンを垂らした唐揚げは嫌いだ。だいたいね、レモンを搾っておけば、どんな料理でも風味がよくなるとかいう謎理論は、俺は認めないね。だってさ、考えてもみろよ。最後に搾ったレモンは、それが料理の一番外側にコーティングされるってことだろう。そしたらさ、全部レモン味になって仕方がないよ。レモン味のおにぎりなんか、俺、食べたくないし。とにもかくにも、そんなわけでさ、俺は紳士然とした行動を心がけているつもりだよ。なにか気に障ることをしたとは、ちょっと考えられないかな。あ、そうそう。唐揚げには〈酢〉ならかけるけれどね」そう言い、ふっと笑う。
 確かに彼は、女性に対しては紳士だろう。それも昔からの、彼の持つ性質だ。ただ、ジョークが壊滅的に面白くない。この評価だけは不変だ。
「それなら、原因を突き止めることは無理だろう。これからの対策も立てられないね」自分で言い、なにに対する対策かを、白石は一瞬考える。
 しかし面倒になり、途中で思考をやめた。
「やっぱり、冷たいなあ」
「うちのコーヒーには、レモンが入っているよ」鐘谷が発言する。「酸味のアクセントのためにね、汁を少し。私はレモンが入っている料理、美味しいと思うけどなあ」
「え、そうなんですか?」
「へえ」
 男二人が、ほぼ同時に言う。
「最近は、結構多いと思うよ。まあ、味の濃い料理では、隠し味に使われていることもあるし」残りのコーヒーを飲み、カップを置いて鐘谷は言う。「たぶん、気づけないだけだよ」
 視線は手元にあるが、どこか、遠くを見ているようだった。彼女の長い睫毛が、一瞬影を落としたように見える。
 そういうものだろう、と思う。見えない、感じられないものを、人は認識しない。否、できないのである。結果として現れたことだけがすべて。人の感情も、言葉や表情に出さない限り、誰にも伝わらないし気づかれない。自分にすら、である。
 言語化していく過程で、いろいろなものが抜け落ちる。ふるいにかけたように残ったものだけが、感情として処理されるのだろう。伝えても伝わらないもどかしさは、ここにある。そういうものだと諦めるしかないのかもしれない。
 少しぬるくなったコーヒーをすべて飲む。
 結局のところ、なぜ呼び出されたのかを改めて考える。わざわざ人を集めてまで話す内容ではないような気がした。本当は、予定を反故になんかされていないのではないか、と思える。おそらくそうだろう。
 いや、あるいは……。
「あの、僕はもう帰ります」白石は立ち上がって言う。「長居してしまってすみません。時間外なのに」
「うん、大丈夫」鐘谷も立ち上がる。「またいつでも来てね。と言っても、私はいないかもしれないけれど。あ、そうだ。学校で会うかもね」
 少し笑って彼女は言った。もう、先程の表情はどこにもない。
「そうですね」
「コーヒー代は俺が出すよ」のっそりと動きながら、川崎が言う。「そういえば紗由さん、どうやって帰りますか? もう終電はないだろうし。俺は白石に車で送ってもらいますけれど、よかったら乗りますか? いいよね? 白石」
「ああ」
「なんだ、もう少し喜べよ」
「喜んでいるよ。お前の言葉通り、美味しいコーヒーが飲めたからね」
「ありがとう」鐘谷が白い歯を見せる。「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。支度をするから少し待って下さるかしら」そう言いながら、カップを三つお盆に載せ、厨房の奥へ行く。
「外で待ってまーす」川崎が、少し大きめの声を出す。
 はーい、と小さく返事がきこえた。
 ジャケットを羽織り、縦に並んで二人で歩く。扉付近の左手にあるレジに、川崎が代金を置いた。
 ごちそうさまでした、と小さく呟く。
 川崎が扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。そう、いまは冬なのだ。
 小さく流れている音楽が、また意識へと滲み出す。無意識に世界を遮断しているのだな、と白石は思う。隔絶といってもいいだろう。自分と世界との間にある扉を開けたとき、そこで聞こえてきたのは、クライスラー、「愛の悲しみ」だった。