零れる夜

今村 壱生

第一章 疑惑と邂逅

1

 白石しらいしれいいちは思い出す。自分には、わからないことが多い。
 それは、己が知らないことといってもいいだろう。
 それは、これまで何も明らかにしてこなかったことの代償かもしれない。
 臆することなく他人にものを尋ねられる、というのは自分の長所だろうな、と白石は思う。いや、自分でそう認識しているだけである。こうやって長短で切り分けられるほど、人間の思考や行動は、単純ではないかもしれない。
 白石の場合、ものごとを難しい方に考えてしまう。それはある一面では短所だろうか。
 ある人にとっては正義、また別の人にとっては悪。小さなことでも、良い悪いの判断は、結局は個人に依存する。この認識に間違いはないだろう。
 主観過ぎる思考は危険だ、と白石は思う。なにも見えなくなってしまう。いまどこにいて、なにをしているのか、それすらも曖昧にする力がある。
 そして、自身を客観的に捉えるとき、いつもイメージするのは、斜め後方からの視点。もうひとりの自分がいるような、矛盾を伴う認知。白石にはこれができる。
 だが、いろいろな人がそれをできるときく。
 自分も一大勢の例外ではないようだ、と白石は認識する。こうやって大衆と紐付いている、という安心感を、人は無条件に享受している。それは、現在の世界の在り方であり、人間の問題ともいえる。所詮、社会とは、個人の集まりに他ならないのだ。

2

 さて、白石には、わからないことが多い。
 喫緊の問題としては、本当にこの店に入ってよいのかどうか、なのだが……。あいにく、周囲には尋ねられそうな人がいない。
 そう、誰もいないのである。
 というのも、白石は現在、広島市内にある喫茶店の前にいる。細い路地を少し進んだ場所に、いきなり出てくる店だ。もちろん、店は動かない。店からすると、いきなり出てくるのは自分の方だろう、と白石は考えた。それは当然である。それなのに、こんな表現になってしまう。そんな思考を巡らせる脳の電気信号。ふっと息がこぼれる。
 また、周囲に誰もいないことを確認する。
 嫌味のような静けさがこの夜を包んでいる。そして、思い出したように冷気が躰を伝う。
 左腕を少し上げ、時計を見る。十二時。正確には、十二時二分まえだ。一般的にいえば、夜中である。
 断りもなしに入ってよいのか心配になるほど、暗い外観。
 集合場所。
 特に躊躇はなく、入口の扉を引き開けた。
 本当に客を招く気があるのかと思えるほど、無駄に重い木製の扉だ。そして、入口付近で十秒ほど立ち止まった。なぜそうしていたのかは自分にもわからないが、大半の人間(この場合の人間とは、一般的な日本人である)がこの行動をするのではないだろうか。もちろん、そんな統計など取ったことはないが、なんとなく入りにくい雰囲気ではある。
 入口から奥に伸びる店内。奥行きにして十二メートルほどだろう。入口からすぐ左手に、二人がけの四角いテーブルが一つある。右手がレジ、その奥に厨房らしき空間があるようだ。一番奥の右手からレジの手前まで、一繋ぎの黒いソファが鎮座している。そのソファに沿う形で、小さな丸いテーブルが六つ置かれている。
 淡い照明が灯っている。
 壁には絵が幾つか掛けられているが、風景画ということしかわからない。金のような銅のような、くすんだ色の額縁が共通点だと認識できる程度である。
 目の慣れない照明の下、ジャズか何かの音楽が流れている。この時間帯には相応しくない気がしたのだが、それは主観というもの。自分の考えがすべてだと思えるほど、傲慢ではないつもりだ。
 白石はとりあえず、一番奥のソファに座った。
 客どころか、店員すらいないのではないか。不気味なほど静まり返っているが、相変わらず、陽気な音楽だけが聞こえてくる。
 こういうときに、誰もいない空間に対して声をかけられるほど白石は強くはない。そう、昔からそうなのだ。
 生まれた瞬間からいまこの瞬間まで、脈々と続いている一個の人格。細胞は日々生まれ変わる。生まれたときに持っていたものは、もうなにも残っていないはずなのに、記憶は引き継がれる。不思議でならない。この躰のどこに、記憶はあるのだろう。そして、我々はどこから来たのか。
 白石は意識の深度を上げる。二秒ほど、深く潜っていた。
 悪くない静けさだ。静かな場所は、心地がよい。
 ジャケットを脱ぎ、濡れたように黒々と光るソファに置く。そして、この場所に来た経緯を、目を瞑って思い出す。

3

 友人に呼び出されて、この場所までのこのこやって来た。
 突然電話がかかってきたのだ。
 電話とは、いつも突然鳴り響く。知的思考力を持った人間が作ったとは思えないほど、受け手に失礼な機構である。白石は、日頃からそう感じている。
 その電話があったのは、十一時三十分。自宅で読書をしている最中だった。
 ディスプレイを見て名前を確認し、スマートフォンを手に取る。
「もしもし」白石は答える。
 相当ぶっきらぼうな声だっただろう。
「もしもし、川崎かわさきだけど」
 白石の友人の、川崎である。彼は、電話口でいちいち名乗る。毎回だ。律儀なことである。
「うん、だろうね。どうしたの? こんな夜に」
「とても不機嫌そうだね。まあいいや」気にも留めない様子で川崎が言った。「強いていえば、相談。消極的にいえば、報告かな」
 意味がわからない。言葉の使い方が間違っていそうだが、面倒なので指摘はしない。
「なんの相談?」
「電話じゃあれだからさ、G線まで来てくれない? 場所は知っているよね?」
「ジーセン? どこ? 知らないよ」持ち手を入れ替えてきく。「え、これから?」
「ちょっと、いまからメッセージを送るよ。美味しいコーヒーが飲めるからさ。いいだろう? 三十分後の十二時に集合で。それじゃあよろしく」
 一方的に電話を切られた。小さく舌打ちをする。
 すぐに川崎からメッセージが届いた。本文には、G線とやらの地図だけが表示されている。場所を確認し、画面をロックする。
 読みかけの本に栞を挟み、白石は立ち上がる。思わず溜息が出た。
 川崎にいきなり誘われることは幾度かあったが、今回はかなり久しぶりだ。具体的には、四ヵ月ぶりになる。
 車のキーを手に取る音で、エルが目を覚ます。彼女は眠りが浅い。睡眠の深度を測ったことはないが、少しの物音に気が散るようだ。
 二ヵ月まえに五歳を迎えた彼女に、「行ってくるね」と声をかける。意味は伝わっただろうか。小首を傾げてこちらを見ている。
 触れたくなり、側まで行く。ソファの背凭れの部分が、彼女の特等席だ。
 ソファに腰を下ろす。
 豊かなグレーの毛を撫でる。頭から首、背中から尻尾までを何度も。
 しばらくそうしていると、彼女はやがて、眠りに就いた。
 ふさふさの口髭が、なんとも愛らしい。明日はちょっと遠くの公園まで連れて行こうと、勝手に計画を立てる。ドイツにルーツを持つ彼女は、寒い季節が得意らしいから文句はないだろう。
 音を立てないように腰を上げる。そして、ジャケットに袖を通しながら白石は思い出す。今日が十二月二十四日だということを。

4

「うー、やっぱり寒いねえ。あれ、紗由さゆさんは?」
 そう言いながら川崎が姿を現したのは、十二時を五分過ぎた頃だった。
「誰? 知らないけれど」
 いきなり呼び出され、待ちぼうけを食らった上、いまだコーヒーにありつけていない状況に、白石は少し苛立ちを覚えていた。時間には、少々厳しいのである。特に、人を待っている時間は、普段よりも余計に長く感じてしまう。
「ああ、この店のオーナーだよ」ハスキーな声で川崎が答える。「それより、そんなにイライラするなって。いきなり呼び出してすまなかった」
「うん、それはいいとして、その人いないの?」あたりを見渡しながらきく。「そもそも、営業中なのかな。看板のライト、灯っていなかったし」
 言い終わる前に、川崎は厨房へ向かっていた。紗由さんなる人物は、川崎の知り合いなのだろう。直接呼びに行ったのかもしれない。白石が店に入ってからの数分間、物音ひとつ聞こえなかったが、本当にいるのだろうか。
 少しして川崎が厨房から出てきた。その後ろに小柄な女性がいる。歳は白石と同じくらい、もしくは下かもしれない。腰からエプロンを下げ、髪を後ろで一つに結んでいる。大きな目が印象的だ。
「えーっとね、彼女が鐘谷かねたに紗由さん。初めてだっけ?」川崎が質問する。
「うん、初めてだね」友人を少し睨んで答えた。そして彼女の方を見る。「どうも初めまして。白石零一です。川崎の友人です」
「鐘谷紗由です」完璧ともいえる笑顔とともに、彼女は挨拶をした。
 しかしよく見ると、その目は充血している。もしかしてこの人、さっきまで寝ていたのか。
「あなたのことは知っていますよ、白石君」彼女は言葉を続ける。「そうそう、なにか飲まれますか?」
 なぜ自分のことを知っているのか、と尋ねたかったが、それをきくことは、なぜか憚られた。
 店内は暖房が効いている。しかし、躰は冷えていた。早くなにか飲みたい。
「あ、ではコーヒーを」
「俺もコーヒーを下さい」
「はーい。ちょっと待っててね」鐘谷は、悠然と厨房に消えた。
 思い出したようにジャズが聞こえてくる。いや、いまはクラシックか。ピアノ曲は好きな白石である。これは、ドビュッシーの「夢想」だ。
「ねえ、あの人誰なの? 僕のことを知っているようだけれど」白石は、小声で川崎に問いかける。
「逆に、お前が知らないってことに驚きを禁じ得ないよ」オーバーな身振りで川崎が言う。「うん、大学の先輩だよ。一つ上の」
「あ、そうなんだ」
「除夜の鐘の鐘に、山谷の谷。糸へんに少ない、由来の由」
「へえ」
「反応薄いなあ。彼女、有名だよ」
「ふうん。どこで?」天井の照明を見上げながら答える。
 照明の数は少なく、充分な明るさとはいえない。隅の方はほぼ見えないほどである。
「そりゃあ、H大に決まっているだろう。もう、みんなの注目の的。お金持ちだし、美人だし、頭良いし」誇らしげに川崎が言う。
 なぜお前が誇らしげなのか、と問いたくなったが、白石は我慢する。しかし、川崎の、彼女に対する評価の二つめには賛同だ。
 我々が通うH大に、彼女はいるらしい。鐘谷という苗字は、珍しい部類に入るだろう。少なくとも、白石は初めて耳にする名前だ。しかし、自称情報通の川崎の言葉によると、彼女は有名人なのである。
 どの学校にも、有名人の一人や二人はいる。なぜそうなるのかは、いろいろ理由があるだろう。それらには、主として、否、すべて話題や噂が伴うものだ。そう、理由がなければ、有名にもなれないのである。
 事件性を孕んだ、ネガティブなイメージを伴う有名人。そちらの方が話題性に富み、有名になるには、一番手っ取り早い方法かもしれない。記憶に残る時間も、長いように思われる。今年の四月、白石は実際にそういった類の有名人に出会っている。
「もう一度きくけれど、なんで僕のことを知っているんだろう」
「そりゃあお前、文学部の白石っていったら、学内では噂になっているからだよ」川崎が目を見開いて言う。「お前、人付き合いが悪いから、そういう話も耳に入ってこないんだろうな。まあ、なにごとにも理由はあるよ。今年あった入学式の事件、お前が解決したって言っても、過言はないだろう? まあ、公にはなっていないけどさ。一部では、白石が真相を知っているっていうことが、周知の事実なんだよ。何を隠そう、俺が皆に広めたからね。だからお前も、一部では有名だって。ああ、自覚してくれよ。友だち甲斐がないなあ」
 そう言いながら、彼はようやく隣のソファに座った。頭の後ろで手を組み、深々と背に凭れる。長い足を組みながら、ゆっくりと目を瞑った。身長とは見合わない、大きな足に目を留める。彼は、自称スニーカーマニアだ。いつも奇抜な靴を履いている。
「いや、だからさ、その件はもういいって」白石は呆れながら返事をする。
 四月から、もう八ヵ月が過ぎようとしている。しかしどういうわけか、四月はまた来るのだ。
 やがて、良い香りが漂ってきた。待ち侘びたコーヒーである。
「お待たせしましたぁ」鐘谷が厨房から姿を現した。
「うーん、相も変わらず良い香りだよねえ」
「ありがとう」
 鐘谷が、お盆から三つのカップをテーブルに並べる。白石が座っているテーブルに二つ、川崎のテーブルに一つ。サーブした当人は、白石の向かいに座った。
 カップをテーブルに並べる際、彼女の左腕の時計がちらりと見えた。小さな文字盤はとてもシンプルで、腕時計というよりも、ただのブレスレットだと思ったほどである。時刻を確認するという目的には適さないだろうな、と白石は余計な思考を繰り広げた。
「あれ、お店はいいんですか?」白石は尋ねる。そして自分の時計を見た。
「うん。営業は十一時までだから、お客さんは来ないよ」鐘谷は、エプロンを外しながら答える。「今日はちょっと、特別かな」そして、カップを両手で包み込むようにして持った。
 もちろん、そんなことは初耳、初知りだ。それで彼女は、先程まで寝ていたのだろう。申し訳ないことをした、と思う。もちろん、寝ていたかどうかは知らないが。
「えっと、僕は、こいつに呼び出されて来たんですけれど…︙。お店を閉めるのなら、これを飲んで、すぐに出ます」
「いえ、いいのよ」カップに口をつけ、鐘谷は続ける。「私も川崎君から連絡があってね、今から行っていいかって。いろいろあって、まあ、仕方なく了承したの」彼女は微笑んだ。
「おいおい、どういう了見だよ」白石は言う。「営業時間、知っていたんだろう? なんで言ってくれなかったの。どおりで、入りにくかったわけだ。呼び出した理由も、まあどうせ大したことはないだろうし。なんとなく想像がつくよ」
 液体のウェットさに比べ、少々ドライな発言かな、と白石は一瞬考える。
 呼び出された理由の、何通りかのシチュエーションがすぐに思い浮かんだが、どれも似たようなものだった。彼を取り巻く環境と、今日の日付によって導かれる。
 しかし、特に興味はないので、コーヒーの香りを堪能することに専念した。
「うん、まあそうなんだけどさ」川崎は苦笑を浮かべる。「白石の長年の友人ってことで、俺も少しは有名になったと思うんだけどなあ、いろんな場所で。まあ、いいや」
「あの、鐘谷さん」その有名人の言葉を無視して、白石は有名人に質問する。「貴女がここの店のオーナーだって川崎から聞いたんですけれど、そうなんですか? 僕たちのひとつ上ってことは、三年生ですよね?」
「答は二つともイエス」鐘谷は即答する。質問を予測していたようだ。
「ふうん。どういうことか、ちょっとわからないですけれど、大変ですね」
 オーナーをやりながら大学に通っているのか。いや、その逆だろう。学生が本分であり、片手間に喫茶店のオーナーをやっているのか。もしそうならば、片手間でできるほど、店の経営というのは容易いものなのか。どういった経緯でそうなったのか。両立できているのか。そういった疑問が頭に浮かんだが、きいても特に得られるものはなさそうなので、質問事項から削除する。
「いや、私は名義だけだからね」首をゆるく左右に振り、鐘谷が言う。「実際には、叔父がお店を運営しているの。まあでも、責任はあるつもり。それで、叔父が店を留守にするときなんかに、たまにこうやって手伝いに来るのだけれど。私、コーヒーを淹れるのが好きみたい。冷めないうちに、飲んで」
「はい」そう言い、白石はようやく、目の前の黒い液体を飲むことができた。
 ほどよい酸味を感じられ、溜息が出る。なるほど美味しい。コーヒーは熱いものに限る。そして、絶対に、余計なものは入れない。
 川崎はすでに半分ほど飲んでいる。口の中は大火傷だろう。まったく味わっていないのではないかと思える。一度そういった類の質問をしたことがあるが、味わっているよ、とだけ答えられた。
 彼も、コーヒーになにかを入れる習慣はない。相談とやらの内容を整理しているのか、静かだ。
 川崎とは中学で出会った。同じクラスになったことはないし、どういう経緯で仲良くなったのかは、覚えていない。ただ、気づけばずっと関係が続いている。高校、大学も同じになり、出会ってから早くも八年が経っている。
 白石は、川崎以外に、友人と呼べる友人はいない。それとは対照に、彼は交友関係が広い。詳しく知っているわけではないが、話の端々に、その傾向が伺える。それは、彼の人懐っこさ、もしくは人当たりの良さに起因しているだろう。
 笑顔が上手い、と白石は評価している。上手いというのは、自然かつ適切に笑えている、という意味である。特に女性に対しては。
 そして、彼の周りには、性別関係なく自然と人が集まるようだ。これは彼の持つ性質だろう。そしてこの人が集まる現象を、白石は勝手に「ハチ公前」と名付けている。
「で、相談ってなに?」隣に座っている忠犬にきく。「電話じゃ話せないような内容なの? 今日は一応、クリスマスイヴなんだけどなあ。いや、もう二十五日だね。そんな日に、電話一本でのこのこやってくる僕も僕だけどさ、相当暇だと思っているね?」
 この友人に対しては、ときどき、棘のある物言いをしてしまう白石である。
「そうそう、きいてよ」テーブルに身を乗り出して、川崎は言う。視線はずっと鐘谷の方にある。「だいたいわかっていると思うんだけどさあ。ドタキャンされちゃってね。あーあ、今日、楽しみにしてたのになあ。うん、昨日だけれども。これ以上の土壇場はない、ってくらいの土壇場だよ。わかる? わかります? この惨めな気持ちが。聖なる夜に、ドリミネーションを見に行こうって誘ってきたのは向こうなのにさ。あの輝きはいいよねえ。白石、ドリミネーション見たことないだろう?」一気にそこまで喋り、白石の方を向く。
 後半の質問は無視された。肯定と受け取ってよさそうだ。忌々しい。
 〈ひろしまドリミネーション〉とは、毎年十一月下旬から十二月下旬にかけて開催される、展示物のライトアップだ。イルミネーションである。平和大通りなどを含む広島市中心部で、約百五十万の電球が灯る。
「あるよ」
「げ、マジ?」川崎が驚いた顔をする。身を引いた反動で、黒縁の眼鏡が少しずれた。手の甲で位置を直す。彼のこの仕草は、中学からずっと変わらない。
 向かいの鐘谷は、くすくすと笑っている。
「子どもの頃にね。それに、平和大通りを通るときには、どうやっても見えるだろう。そういう意味なら、毎年見ているよ」軽く答える。「そりに乗ったサンタクロースが、道路を通るよね。トナカイじゃなくて、なぜか白い馬だけれど」
「私も、そのサンタクロースは見たことある。白い馬も」鐘谷が言う。
「俺もある。有名じゃないかな?」川崎はテーブルに左肘をつき、手のひらで左頬を支える体勢をとっている。「馬って、軽車両に分類されるらしいね。自転車と同じ。だから、道路交通法違反でもなんでもない。だけどさ、車を運転していて、隣に馬が並んだらびっくりするよね。それが原因で、事故が起きないか心配だよ」
「馬の体長によるけれど、サイドウィンドウで見える範囲では、一瞬で馬とは認識できないんじゃないかな」白石は口を挟む。
「うん、それはそうだね。だけどまったく、そんなこと、誰も気にしないよ。こういった話の上では」
「そうかなあ」
「話を戻すけれど、軽車両の馬を高校のときに知ってね。それでさ、担任にきいたんだよ。どういう経緯でそうなったかは、もう忘れてしまったけれど。馬で通学していいですかって」
 初めて聞く話だ。
 しかも、相談とはもうまったく関係のない話になっている。川崎の話はいつもこうだ。脱線するというより、本線すらない。
「先生には、なんて言われたの?」笑いながら、鐘谷が先を促す。
 優しいな、と白石は思う。会話のテンポを維持するためには、こういった合いの手が必要だと、常々感じている。彼の場合、実行するのが面倒で、適当な相槌で終わってしまうことが多い。これは、彼女を見習わなければならない。
「もちろん、だめだって言われました」川崎は、元通りソファの背に凭れ、手を頭の後ろで組み直している。「だけど、校則には書いてないじゃないか、って言い返しましたよ。その後も何回かやり取りがあって、結局その話はすぐに終わったんですけれど。まあ俺も、もちろん本気で言ったわけじゃなかったので、担任も面倒だったでしょうね。適当に流されていたし。それが、二年生のときだったかな」
「へえ」適当に相槌をうつ。
 もう実行に移せていない。諦め、カップに口をつける。
「それでさ、びっくり。次の年の生徒手帳に、〈馬での通学禁止〉の項目が追加されていたよ」川崎は笑いながら喋っている。「だからK高の校則は、馬を探すためにみんながちゃんと目を通していてね。学校側としては、してやったりって感じだったろうなあ。いまもあるかは知らないけれど」
 白石は、川崎を観察する。いつも楽しそうに喋るな、と思う。彼が不機嫌になったところ、もしくは周りにそう認識させるような言動は、見たことがない。少なくとも、彼と白石以外の誰かがいる場面では。殊勝なことである。
「インフルエンサーだね」鐘谷が頷きながら言う。
「そうなんですよ、俺。周りに影響与えまくりで」
 インフルエンサーってなんだろう、と白石は考える。少なくとも、ウイルスではないはずだ。と、一瞬の思考に無駄なエネルギーを使う。いまので、夕方に食べたチョコレート分くらいは、消費できただろうか。
「インフルエンサー」白石は小さく呟く。
 会話に出てくる知らない単語の意味を、脳内で勝手に展開する。後で調べて、そのギャップを楽しむ。正確に推測することは、ほとんどできない。
 次は、目の前の鐘谷を観察する。躰が温まっているのか、頬が少し赤みを帯びている。いや、先程笑っていたからだろうか。
「ところでさ、白石は昨日、なにをしていたの?」川崎が白石の方を見る。
「なにもしていない。本を読んで、エルの散歩に行った。三回」白石は正直に答える。
「うわあ。相変わらず、植物みたいな生活をしているね」カップを持ち上げながら、川崎が言う。「ユズの方が、もっと生命的な活動をしているよ。そういえば、あの白い花は、どうやって生まれるんだろうね。まあいいや。エルと遊ぶのもいいけどさ、もっと人間に興味を持った方がいいよ。特に、女性に、かな」
「エルは女の子だよ」白石は真顔で言う。
 川崎と鐘谷が、同時に吹き出す。川崎はコーヒーをこぼしかけていた。鐘谷は、エルのことを知っているようだ。川崎が話したのだろうか。
「白石君、面白いね」
「でしょう? こいつ、天然なんですよ。自覚はしていないだろうけれど。で、俺が興味あるのは、紗由さんがなにをしていたかってこと。白石は前座です」
「私は、朝からずっと大学にいたよ」少し驚いた目をして鐘谷が言う。「ちょっとやらないといけないことがあってね。家に着いたのが、五時過ぎだったかなあ。だから特に、なにもしていないよ。そうそう、六時から店を留守にするから来てくれないかって、叔父から連絡があったのもそのくらい。いきなり呼ばれることが、たまにあるの。慌てて家を出たんだけれど、割と家から近いからね、ここ」
「熱心ですね、本当に。いやあ、感服しますよ。さすが有名人だ」川崎が皮肉っぽく言う。
「どう? 期待に応えられたかしら?」首を傾げながら、鐘谷は上品に微笑む。
しかしなぜかその顔は、少し寂しげに見えた。
「はい!」川崎は、小学生のような返事をする。
「予定がないといけないって思っている方が、どうかしていると思うよ」白石は投げやりに言う。「いつからそうなったんだろう。集団心理みたいなものかな。クリスマスが近づくと、妙にそわそわした雰囲気が漂うことは否定できない。誰かとともに過ごすことが正義、ってね。どこまでが自分の意志で、どこからが社会の意志なのだろう? 気づかないうちに、動かされているということかな。それもまあ、与えられた幸せかもしれない」
 五秒ほど沈黙。
「いちいち難しく考えすぎなんだよ、白石は」
「そうかなあ」
「そうだと思うね、俺は」
「ふうん」
「長年のつき合いってやつ? 考えていること、手に取るようにわかる。一石二鳥かな」
「気持ち悪いなあ」白石は思わず言う。「あと、一石二鳥の使い方、周りに影響を与えるほど間違っているよ」
「だから俺は、インフルエンサーなんだって」
「あ、そういう意味なの?」
「知らずに使ったのか? まあ、これも一石二鳥じゃん」
「だから……」
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」突然鐘谷が呟く。
「え、なんですか?」川崎がきき返す。「貧弱な広告?」
「もしかしたら、川崎君の使い方が合っているのかもね。私たちは、燕と雀」
「なるほど」白石は頷く。
「どういうことですか? なんて言ったの?」川崎は、白石と鐘谷の顔を交互に見る。
 この表情、傑作である。
「いや、なんでもないよ」鐘谷は笑っている。
「川崎は、鵜ですかね」
「ウ?」川崎は蛸のように唇を窄めて、前に突き出している。
「そして、鐘谷さんは鵜飼い」
「え、私が?」
「そうですよ。鵜飼いでなければなんだろう……」
「ちょっと、俺を差し置いて会話をするの、やめてくれるかな」川崎が赤くなっている。
「十月は英語で?」鐘谷が川崎の方を見て言う。
「オクトーバー? なんでそんなことを聞くんですか?」
「人を動物に例えることが、よくあるじゃない?」鐘谷が斜め上を見て言う。「二人は、なにに例えられることが多い?」
 話題の切り替え、テンポが早い、と白石は感じた。これは頭の回転速度に起因しているのだろうか。
「えっと、俺は犬ですね」川崎がすぐに答える。
「うん、そんな感じがするわね」
「どんな感じでしょうか?」
「いや、特に意味はないよ。相槌って感じかしら」鐘谷が微笑んで言う。
「忠犬ハチ公って、犬種はなんだろう?」白石は思いついたことを口にした。
「犬種? 気にしたことないな。柴犬とかじゃないの」
「私は秋田犬だと思ったけれど」
「意外とストーリーとか、知らないものですよね」白石は言う。
「そうねえ。確かに知らないかも」と鐘谷。
「なんで急に、忠犬ハチ公?」川崎が首を傾げる。
「いや、なんでもないよ」
「白石君は、なにに例えられることが多い?」
「そんな会話をした記憶が、ほとんどありませんね」
「お前、友達少ないからなあ」川崎が言う。いちいち一言多い男である。
「それは認めよう。まあ、猫が多いですかね」
「猫かあ」鐘谷が小さく呟く。
「当たり障りのない動物だなあ」
「そりゃあ、知らない動物に例えることはできないからね」
「なに当たり前のことを言ってるの?」川崎がこちらを見る。
 彼の言葉は、本気なのか冗談なのか、判断に迷うときが、たまにある。
「紗由さんは、なにが多いですか?」川崎は、すぐに視線を戻した。
「ハムスター」鐘谷が小さく答える。
「あー、そんな感じがしますね」
「どんな感じ?」
「相討ちって感じです」川崎は嬉しそうに答える。
 なるほど上手い、と白石は思った。これを言いたかっただけか。ただ、鐘谷の合いの手がなければ成立しなかったが。
「ふうん」少し目を細めて、鐘谷は川崎を見る。「上手いね」
「なんか、会話のイニシアティブがすべて、紗由さんにあるなあ」
「仕方がないよ、川崎。ここのオーナーなんだから」
「一応、この会の主役は俺だと思っていたんだけれど」
「話が脱線するからこうなるんだろう。全部話してみてよ」
「そうそう。伝えたいことは、自分から言わないとね」
「わかりましたよう」川崎は口を尖らせる。「まあでも、最初に喋ったことが、ほとんどすべてなんですけれどね。えっと、どこまで話しましたっけ?」
 彼の物忘れは、三歩めを踏み出したニワトリと同じくらい早い。決して鴻鵠の類ではなかったようだ。
「それじゃあ、お望み通り話を戻すけれど、そのふられた相手は、誰なの?」
「そうそう、そこだったね。うん、ひとつ歳上の人なんだけれどね。あら、もしかして、興味ある?」
水を得た魚だ。しかし、答が微妙にずれている。
「ないよ。だけど、理由は気になるね。その人にはきいたの?」白石は気にせず続ける。
「いや、急に連絡が取れなくなったんだよ」
「ふうん。ほかの日ならまだしも、昨日っていうのは少し引っかかるなあ」適当に話を促す。
「六時に待ち合わせの予定だった」コーヒーを飲み干して、川崎は言う。「その人とは、何度か食事に行ったことがある。そうそう、親同士が知り合い。どういう繋がりかは、知らないけれど。約束を反故にするようには見えないし、いままでもされたことはない。人って、見かけではわからないものだね」
「連絡が取れなくなったのは、何時?」
「五時十五分よりちょっとまえかなあ。直前まで、メッセージのやり取りをしていたからね。覚えているよ」彼はスマートフォンを取り出して操作する。「うん、やっぱり五時十五分だ」
意外に細かい男である。
「待ち合わせを予定していた場所は、どこ?」白石は次の質問をぶつける。
「駅前のSホテルの、ラウンジ。割と最近できたところだよ」
「へえ、そうか。場所はわかる。そこのコーヒーは、少し薄かった記憶があるな」いつか行ったときのことを思い出しながら、白石は目の前のコーヒーを飲む。
「そこのフロントかどこかに、俺宛に電話があってね。『今日は行くことができない』って、その人からだった。六時まえの、土壇場だよ。まったく、驚いたね。メッセージは駄目なのに、電話ならできるって、俺にはちょっと理解はできない心理だった」
 だった? 白石はなぜかそこに引っかかった。だが、顔には出さずに、「そう」とだけ答える。
「俺って、ドタキャンされることが多いんだ。白石は知っていると思うけれど。どう?」
「僕が知ったところで、どうにもならないんじゃないかな」
「知っている、理解してくれている人がいる、ということだけで、人は安心できるんだよ。根本的な解決には、何一つなっていないのに」
「そういうものかなあ」
「そういうものだよ」溜息とともに川崎が言う。「お前はいいよな」
「え、なにが?」
「ねえ、紗由さん。ドタキャンをする女性の心理って、どういうものなのでしょう?」黙って話を聞いている鐘谷に、川崎が質問をする。
「その心理に、性別は関係ないと思うけれど」鐘谷は即答した。
 白石もまったく同じことを考えていたので、ちょっと驚いた。
「あら、白石が言いそうなことですね」
 なかなかの慧眼である。いや、慧耳かもしれない。
「一つ挙げるとすれば、逃避じゃないかしら」大きな目を一度瞬かせて、鐘谷は続ける。「その行為に至る思考自体は、わからなくはない。理解できることと、実際に行動することは、まったく別だけれど。うん、予定というのは、必ずいまよりも時間的に未来にあるよね。そこに向かって行動していく、それがストレスになるんじゃないかしら。最終的には、そこに行き着いてしまうわけだから。行動の制約、思考の制約。一番は、時間の制約でしょうね。誰もが、自分の未来は自由に選択できると思っている。すべては幻想なんだけれどね……。だから、つまり、そのストレスからの逃避。解放と言っていいかもしれない。土壇場かどうかは、その予定と発生したタイミングの、時間的距離にある。それは、された側がどう感じるかによるでしょう」
 綺麗な発声だ、と白石は思う。これだけ理路整然と言葉が出てくるのは、頭がよく整理されている証拠だろう。川崎の、彼女は頭が良い、という発言を思い出す。
 思わず彼女を見てしまう。結んでいた髪はいつの間にか解かれ、いまは真っ直ぐに下ろしている。鎖骨あたりまである毛先は、少し内側にカールしている。前髪は目の上で切り揃えられ、魅力的な目元を強調しているようだ。綺麗な黒髪と対を成す白さを持った肌。小さく白いその顔は、川崎の方を向いている。
「逃避かあ。それなら少し嬉しいですね」
 嬉しい?
「それって、かなりポジティブに捉えていない? 川崎」彼の反応が意外だったので、白石は思わず口を挟む。意味をきき返すと思ったからだ。「要は、嫌われたってことだろう。なにかしたのでは?」
「なにかってなんだよ」
「たとえば、しりとりで〈る〉攻めをしたとか、唐揚げに、勝手にレモンを搾ったりとか。つまり、心当たりはないのかってことだよ。これまでの言動を思い出してみて」
「俺はね、白石」口角を少し上げて、川崎が言う。「しりとりをするときは、いつも〈す〉で攻めるし、唐揚げに勝手にレモンは搾らない。そもそも、レモンを垂らした唐揚げは嫌いだ。だいたいね、レモンを搾っておけば、どんな料理でも風味がよくなるとかいう謎理論は、俺は認めないね。だってさ、考えてもみろよ。最後に搾ったレモンは、それが料理の一番外側にコーティングされるってことだろう。そしたらさ、全部レモン味になって仕方がないよ。レモン味のおにぎりなんか、俺、食べたくないし。とにもかくにも、そんなわけでさ、俺は紳士然とした行動を心がけているつもりだよ。なにか気に障ることをしたとは、ちょっと考えられないかな。あ、そうそう。唐揚げには〈酢〉ならかけるけれどね」そう言い、ふっと笑う。
 確かに彼は、女性に対しては紳士だろう。それも昔からの、彼の持つ性質だ。ただ、ジョークが壊滅的に面白くない。この評価だけは不変だ。
「それなら、原因を突き止めることは無理だろう。これからの対策も立てられないね」自分で言い、なにに対する対策かを、白石は一瞬考える。
 しかし面倒になり、途中で思考をやめた。
「やっぱり、冷たいなあ」
「うちのコーヒーには、レモンが入っているよ」鐘谷が発言する。「酸味のアクセントのためにね、汁を少し。私はレモンが入っている料理、美味しいと思うけどなあ」
「え、そうなんですか?」
「へえ」
 男二人が、ほぼ同時に言う。
「最近は、結構多いと思うよ。まあ、味の濃い料理では、隠し味に使われていることもあるし」残りのコーヒーを飲み、カップを置いて鐘谷は言う。「たぶん、気づけないだけだよ」
 視線は手元にあるが、どこか、遠くを見ているようだった。彼女の長い睫毛が、一瞬影を落としたように見える。
 そういうものだろう、と思う。見えない、感じられないものを、人は認識しない。否、できないのである。結果として現れたことだけがすべて。人の感情も、言葉や表情に出さない限り、誰にも伝わらないし気づかれない。自分にすら、である。
 言語化していく過程で、いろいろなものが抜け落ちる。ふるいにかけたように残ったものだけが、感情として処理されるのだろう。伝えても伝わらないもどかしさは、ここにある。そういうものだと諦めるしかないのかもしれない。
 少しぬるくなったコーヒーをすべて飲む。
 結局のところ、なぜ呼び出されたのかを改めて考える。わざわざ人を集めてまで話す内容ではないような気がした。本当は、予定を反故になんかされていないのではないか、と思える。おそらくそうだろう。
 いや、あるいは……。
「あの、僕はもう帰ります」白石は立ち上がって言う。「長居してしまってすみません。時間外なのに」
「うん、大丈夫」鐘谷も立ち上がる。「またいつでも来てね。と言っても、私はいないかもしれないけれど。あ、そうだ。学校で会うかもね」
 少し笑って彼女は言った。もう、先程の表情はどこにもない。
「そうですね」
「コーヒー代は俺が出すよ」のっそりと動きながら、川崎が言う。「そういえば紗由さん、どうやって帰りますか? もう終電はないだろうし。俺は白石に車で送ってもらいますけれど、よかったら乗りますか? いいよね? 白石」
「ああ」
「なんだ、もう少し喜べよ」
「喜んでいるよ。お前の言葉通り、美味しいコーヒーが飲めたからね」
「ありがとう」鐘谷が白い歯を見せる。「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。支度をするから少し待って下さるかしら」そう言いながら、カップを三つお盆に載せ、厨房の奥へ行く。
「外で待ってまーす」川崎が、少し大きめの声を出す。
 はーい、と小さく返事がきこえた。
 ジャケットを羽織り、縦に並んで二人で歩く。扉付近の左手にあるレジに、川崎が代金を置いた。
 ごちそうさまでした、と小さく呟く。
 川崎が扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。そう、いまは冬なのだ。
 小さく流れている音楽が、また意識へと滲み出す。無意識に世界を遮断しているのだな、と白石は思う。隔絶といってもいいだろう。自分と世界との間にある扉を開けたとき、そこで聞こえてきたのは、クライスラー、「愛の悲しみ」だった。

5

 時刻は十二時四十分過ぎ。
 厚い雲が空を覆っている。暗くてよく見えないが、なぜか、そうとわかる。
 鐘谷を待つ間、川崎との会話はなかった。これは珍しいことである。
 店を一歩出た瞬間から、川崎は空を見上げていた。星の明かりは一つもないのに、なにを見ているのだろう。否、なにも見ていないのかもしれない。あるいは、なにも見たくないのか。そのいずれかだろう。
 細い路地を、冷えた風が通り抜ける。白石は、思わずジャケットの襟に首を埋めた。まるで、あらかじめプログラムされていたかのように、動く。
 0と1。
 我々人間の行動がすべて予定されているものだとしたら、と考える。自分の意思で動いていると思っていても、それすらもプログラムの一部に過ぎない。制限された思考の中でしか考えられないのである。予定などなくても、我々はすでにこの身に制約を受けているのだ。
 なんて不自由な。そして、なんて合理的な。自由すぎる選択や思考は、ときにストレスしか生まない。この世に存在するあらゆる柵(しがらみ)を、素(もと)よりそうあるものとして受け入れている。人間というのは、どこまでも社会の一部なのだ。
 やがて、意識は離脱し、斜め後方、もっと上、さらにその上の雲の果てまで遠ざかる。客観視の兆候である。五感はもう、意味を成さない。意味を持たせることすら、烏滸がましいのかもしれない。彼の大部分は、すでになにも見ていないし、なにも聞いていない。さきほどまで感じていたはずの寒さは、いまはもう感じることさえできない……。
 空。
 風。
 雲。
 闇。
「お待たせ」
 はっと息を飲み、意識は自分へと還る。
 川崎がゆっくりと扉の方へ首を回す。白石はそれを横目で捉えていた。彼はなにを考えていたのだろう。
 鐘谷は、扉に鍵をかけながら「寒いねえ」と呟いた。
 乾いた音だけが、冬の空に響く。
「駐車場が見つからなくて、少し遠くに停めています」白石は歩き出しながら言った。「このあたり、一方通行が多いでしょう。僕、苦手なんですよね。少し遠くても、安全な道を選んでしまいます」
 川崎と鐘谷が後を着いてくる。
 少し進んで、振り返って二人を見た。彼らの吐く息が白い。まるで、呼吸の一つひとつにも、意味があるかのように。そんな幻想を抱かせる白さだった。その白さは、やがて闇に消え、その痕跡すらも残さない。人間が生きた証のように。
「馬で来ればよかったのに」川崎が笑いながら言う。
「私もそれ、言おうと思ってた」
「来年は、そうしようかな」白石は答える。「あ、でも、馬って二人乗りかもしれないね」
「確かに、一頭に対して二人以上乗っている場面を、見たことがないかも」
「そうだねえ、もう一頭必要だね」鐘谷が手を擦り合わせる。「馬ではなくて、トナカイならどうだろう? ソリを引かせるの。それなら、三人でも乗れる気がするなあ。免許はいらないかしら……」
「完全なオートマティックだから、いらないんじゃないですか? 4WDだけれど、夢の全自動運転ですよ。未来だなあ」川崎が言う。からかっているのだろうか。
 やがて、雪が降ってきた。かろうじて雪と認識できるような、小さな結晶たち。音も出さずに、空から地表へと向かう。
 昔から不思議だった。あんなに高い場所にある雲。そこから落ちてくる雪。それを手に取ってみると、まるで重さを感じない。なぜ、わざわざ地表に降りてくるのだろう。宇宙の方が近いはずなのに。宇宙へ飛び立てるほどの自由を持っているはずなのに。
 なぜ、と考える。宇宙へ行っても、誰にも見てもらえないから? これは、あまりにも人間的思考だと言わざるを得ない。自然の営みに、人間の入る余地などないのだ。
「紗由さんの家って、どこらへんですか?」川崎がきく。
「千田だよ」時刻を確認しているのだろうか、鐘谷は、左腕を街灯に向け、角度を何度も変えている。
 暗くて見えにくいだろう、と白石は思う。
「ほう、なら近いですね」
「いつもはここから市電で帰るの。ほんの十五分程度で着くけれどね」
「まったく、お嬢様なのに、偉いですねえ」
「そんなんじゃないって」鐘谷は苦笑する。「街中を走る電車って、全国的にも珍しいでしょう? もしかしたら、いつかなくなっちゃうかもしれないから、いまのうちに乗っておこうって。ただ、それだけ」
 駐車場に着く。川崎が料金を払ってくれた。律儀なことである。
 三人とも車に乗り込む。助手席に川崎、後部座席の左側に鐘谷である。
「暖房!」川崎が叫ぶように言う。
 車内の空気は、外気よりも冷たい気がした。エンジンをかけ、暖房を最大にする。はじめは、殺人的な冷気が吹いた。最初から暖気が吹き出す機構を、いますぐにも開発すべきである、と白石は日頃から思っている。
 少し温めてから、車を発進させる。
 夜中とはいえ、週末である。タクシーの数が多い。道は空いてはいるが、路肩に停まった車のせいで死角が多く、スピードを出すことができない。なにかが飛び出してくる危険があるからだ。それは、人かもしれないし、トナカイかもしれない。
 申し訳なさそうに、雪が降っている。
「あ、そうそう」最初の信号で止まり、白石は呟く。「一頭の馬で、この三人が移動できる方法を知っている。強いて言えば、それをできる馬の名前を知っている。消極的にいえば、それ以外には思いつかない」
「言葉の使い方、間違っていると思うよ」助手席の川崎が気のない声を出す。
「その馬の名前って?」後ろの鐘谷がきく。
 信号が青になった。両サイドの車が前方へ流れていく。この車がバックしたように一瞬錯覚する。
ブレーキから足を離し、アクセルへ切り替える合間に白石は答えた。「稚香馬」

6

 鐘谷を家へ送り届け、川崎の家に向かう。
「呼び出したの、お前じゃないだろう」白石はすぐに、助手席の川崎に問いかける。
 一瞬の沈黙。
「ん、なんのこと?」
「とぼけるなよ。まあ、別にいいけどさ」
 隣の友人の顔は見えないが、おそらく微笑んでいるのではないだろうか。なんとなく、そんな気がする。
 適度な間隔を保って街灯が立っている。夜に沈んでしまわないよう、必死に光を放っているのかもしれない。
 彼らにも、パーソナルスペースがあるのだろうか。あるいは、自分が照らすテリトリーを守っているのか。どちらも同じだろう。
 車が側を通過するごとに、等間隔の光が影を生む。まるで道標みたいに並んでいる街灯は、カーブした先で見えなくなっている。我々はどこへ行くのか。
 走行音だけが響く車内。
 数日まえに、カーナビをそっくり外した。修理中である。ナビも音楽もテレビも、すべてここに集約されていた。それを誇示するかのように、色とりどりの配線類が剝き出しになったまま、主の帰りを待っている。
 沈黙。
 べつに不快ではない静けさだ。
 川崎が少し窓を開ける。
 道を行き交う人たちの話し声、笑い声がきこえてくる。我々は何者か。それは、ノイズとなってどこかへ霧散した。
 そう、沈黙という現象ですら、相手がいないと成立しないのである。
「ぜんぶ、わかっているの?」窓を上げ、川崎が問う。
「いや、憶測でしかないよ」
「おそらく、合っているだろうね」
「なんでわかるの?」白石は問い返す。
「陳腐な表現でいうと、長年のつき合い、かな」
「そのとおり。使い古されているね。もう跡形もないほどに。その言葉自体が、もうどうしようもなく風化している。なにもかも、発した瞬間に、過去になるんだ」
「お前が言うことは、難しくてよくわからないよ。相変わらず」
「川崎なら、理解できるだろう」
「あるいはね」
「なんで僕の前以外では、あんな風に道化けているの? 本来のお前じゃない気がするなあ。まあ、どちらが本質かは、関係がないか」
「そうだね。自分でもわからないよ」
 やがて、車はトンネルに入った。
「鐘谷さんが、お前と僕を呼び出したんだろう?」
 また、沈黙。
「どうかな」
「まあ、理由は幾つかあるよ。だが、さっきも言ったけれど、これは憶測に過ぎない」
「へえ、きかせてよ」
「どこから話そうか」
 白石は、一瞬で思考をまとめる。
「まず大前提として、お前が昨日ふられた相手は、鐘谷さん。そうだろう?」
「どうかな」川崎が同じ言葉を繰り返す。
 白石は構わず続ける。
「キー・ポイントは、お前の発言にあった」
 彼はなにも答えない。三秒ほど待って、白石は話し出す。
「いいだろう。まあ、当事者のお前に話しても、なんの意味もないことだろうけれど。川崎は言ったよね、『フロントかどこかに、俺宛に電話があってね』と。これは、そこのホテルにお前がいることを知らないとできないことだ、当然だけれど。だがね、客宛に連絡があったからといって、そうそうすぐには情報を与えないのが、ホテルマンだ。それに、ホテル側の運用としてもそうだろう。信用に関わる問題だからね、致し方ない。それに加え、ただラウンジに佇んでいる、もしくは、ただそのあたりにいるお前に電話を繋ぐことなど、ほぼ不可能だと言っていいだろう」
 短いトンネルを抜け、車は再び夜へと出た。
「なんていったって、昨日は、クリスマスイヴだ」前を見たまま白石は続ける。「人で溢れ返っていたことだろう、どこもかしこも。ホテルも例外ではない。容易に想像ができる。そして、『誘ってきたのは向こうなのにさ』とも言ったね。これの主語は、『ドリミネーションを見に行くこと』だった。大の大人が、日の入り間もない午後六時に、イルミネーションなど見に行くだろうか? まあ、このあたりは、個人の感覚によるだろうけれど。そこでまた、フロントの話に戻る。お前に電話が繋がった、かかってきたことを発端として、いろいろなものが見えた。まず、電話が繋がった理由。次に、それまでメッセージでやり取りをしていたのに、その相手は、なぜわざわざホテルへ電話をかけたのか。疑問は、この二点に集約される」
 相変わらず、川崎は黙って外を眺めている。
「一つめの回答。誘われたお前は、ラウンジに行き、どこかの席に座っていた。そこは、もしかしたら付属のレストランだったかもしれない。そこはまあ、どちらでもいい。予約者の名前を告げ、席に案内される。そこで待っていたお前に、六時まえ、知らせが入った。今日は行くことができない、と。予約者本人からだ」
 少し暑かったので、白石は暖房を緩めた。
「余談だが、このシーズンのホテルやレストランは、予約の確認に余念がない。予約日の一週間まえ、前日など、再三連絡がくるものだ。予約者本人からの連絡とあっては、ホテル側も対応しないわけにはいかないだろう。電話番号などで、容易に本人確認ができたはずだから。その名前が珍しければ、尚更だ」
 赤信号で停止する。
「ここまでで、なにか質問はある?」
「どうして俺は今日、G線に行くことができたの?」前を向き、川崎が呟く。
「そんなことは、僕は知らない」
「冷たいね」
「どうかな」
 前方の信号に、直進の許可を得た。
「二つめ」徐々に面倒になってきたが、白石は続きを話す。「ここまでくるともう、明確だろう。まあ実際には、僕はこちらを先に考えたかもしれない。なぜ〈彼女〉は、スマートフォンではなく、ホテルへ電話したのか。それは、電話をしたくてもできなかったから、これに尽きるだろう。スマートフォンがない環境にいた、携帯するのを忘れていた。あるいは、充電がなくなり、電源がつかなくなってしまった。まあ、いずれかだ。どこかにスマートフォンを忘れ、探すこと、取りに戻ることもままならなかった、っていうのもあるね。どちらにせよ、仕方なく、ホテルへ電話をかけたわけだ。僕もスマートフォンがなければ、お前に電話をかけることもできない。番号なんて、いちいち覚えていられないからね」
「おいおい、寂しいことを言うじゃないか。俺の電話番号は、中学から変わっていないのだけれど」
 それはそうだろう。登録してある彼の電話番号を、一度たりとも変えた覚えなどない。
「二つめの理由に関しては、もう少し根拠がある」
「どうぞ」
「彼女の腕時計だ」白石は一気に喋ることにした。「あれ、文字盤がとても小さいよね。お前、眼鏡を外したら、本当にただのブレスレットに見えるんじゃないか。少し太めの。まあそれはさておいて。店を出てから駐車場へ向かう途中、彼女、時間を確認しようとしていた。腕時計で、何度も。あのあたりの道は、街灯の明かりは充分とはいえないほど薄暗いよね。とてもじゃないけれど、針なんて見えなかったと思う。普通なら、諦めてスマートフォンで確認するんじゃないかな。文字盤が光るのなら、別だけれど」
「充電が切れていたのかもしれない」
「なら、なぜそう言わない? 仮にそうだとしても、店でいくらでも充電できただろう」
 白石は、少し苛ついている自分に気がついた。川崎にはばれないよう、小さく呼吸を整える。
「変なところに気づく奴だ」
「ただ、僕がわかったのはここまで。しかも、すべて憶測だよ」
「それだけのことを推理して、なにが不満なんだ」
「先にあった約束を反故にしてまで、優先することだろうか」友人の軽口は無視する。「いや、それはもう本人にきくしかないだろう。しかしその理由を知っても、得られるものはなにもない」
「だろうね」溜息混じりに川崎が言う。「白石は、白石以外の何者でもないから」
どういうことだろう、と思い、白石はちらりと左を見る。川崎は、真っ直ぐに前を見据えていた。
「だからまあ、僕が呼び出された理由については、見当もつかない」
 約束の埋め合わせのため、川崎とともに呼び出したのだろうか。しかし、どのような手段で? さきほど考えたことと、矛盾が生じてしまう。彼女はスマートフォンを持っていなかった。それは間違いないだろう。
 川崎の電話番号を覚えていたのだろうか。いや、それはない。もし覚えていたとしたら、わざわざホテルへ連絡はしないはずだ。やはり、川崎から連絡したのだろうか。
 逃避。
 その言葉が、白石の頭を過ぎる。
 本当に逃避していたのは、あるいは、鐘谷自身かもしれない。自らを遠ざける。それをできるのもまた、自分自身のみなのだ。
 しかし、そんな考えも、今日はもう、終わり。
 そろそろ目的地に着く。
「いつもの場所でいい?」白石はきく。
「ああ」
 川崎のマンションのすぐ近くに、車を停める。
「これだけは、彼女の名誉のために言っておくよ」ドアを閉めるまえに、川崎が言った。「二人を呼び出したのは、俺なんだ。そして、彼女には、なんの責任もない。本当に、家庭の事情ってやつさ。じゃあ」バタン。乾いた音が響く。
 ああ、いまの言葉で理解した。
 白石は考える。自分は試されていたのだ。あの二人に。否、鐘谷に、だろう。
 川崎は、決して馬鹿ではない。むしろ、頭の回転が速いほどである。たまに驚かされる、彼の思考の飛躍。一般的にいえば、切れる。
 白石は、自分が間違っていない、肯定したい、ということに拘泥している自分を感じる。
 車を発進させ、白石はまた思い出す。自分には、わからないことが多い、と。

 この夜が、鐘谷紗由との出会いであった。

第二章 誘惑と事件

1

 私は、微睡みの中にいた。
 短い夢を見ていたように思う。
 まだ目は瞑ったまま。
 ようやく現実を認識したと感じているいま。これも夢なのでは、と考える。だが、そんな思考にはなんの意味もないことを知っている。
 夢と現実を区別することに、どれほどの価値があるだろう?
 一生夢を見ていた方が幸せなはずなのに、人は現実を暴こうとする。私はいつまでも夢を見ていたい。それは、ずっと幼い頃から不変の想いだ。
 世界に定着したくない、という想いがある。それと同時に、生きるという行為に執着していない、と自分でも評価できる。生を維持するだけのエネルギーを、常に保ってはいられないのだ。とても疲れてしまうから……。
 躰があることにより、精神は自由になれない。肉体を持っているものは、すべて、その奴隷。膨大なエネルギーを費やしてなお、必ず最後は死を遂げる。それがすべてを物語っているではないか。
 これらの想いは、誰にも話したことがない。すべて自分だけのもの。大切に箱の中に仕舞って、宝物をそっとしておくようなもの。自分の大切なものを、人に簡単には見せられない。それと同じ。
 そんな私の危うさを、両親は過剰に取り除こうとする。否、取り除こうとしていた。
 世界に対し、私は自分なりに、防衛線を張ったつもりだった。
 それは、演じること。
 私の宝物は誰にも見せられない。だが、他人は私に接触しようとする。ならば、彼ら彼女らが描く私の像を、演じてやればいい。
 本当の私からは隔絶された外の世界で、自分のマリオネットが踊っている。
 透明なガラスの向こうに、私がいる。皆が私だと思っている人形が、世界を生きている。
 卑しい。
 醜い。
 とてもそんな世界では生きられない。
 情態。
 暖かい。
 この内側は、とても綺麗な世界。
 少し狭いけれど、一人で生きていくには充分。我慢はできる。これ以上の贅沢など、ないのだから。
 それがわかってからは、多少楽になった。なにがだろう? それはまだ、解答を得られていない。これから得られる予定も、たぶんない。
 ただ、一番顕著だったのは、両親の反応だった。二人が湛える安堵の表情は、心の底から湧き出してくるものなのだと、なぜかわかる。それだけでも、私を演じている甲斐があるというもの。
 これでいい。こうやって人は、生き方を学んでいくのか。あるいはこれこそが、人間が持っている、本来の生き方なのか。私の周囲で生きている人も、そうなのだろうか?
 自分の生に、意味を与えることができるのは自分。
 私以外には、それはできない。決して。
 だが、演じている私の分身に対して、仄かな感情を抱くようになった。
 それは、ありきたりな言葉で言えば、嫉妬。ごく自然に、世界と関係を構築していることに対してだろうか。この自己評価は、私の心に矛盾を孕ませる結果となっている。と同時に、その曖昧さをも受け入れられる自分がいる。ここにいる。
 答を曖昧にして、先延ばしにしよう。
 時間がすべてを解決してくれるから。
 いまの私は、なにも解決しなくていい。未来の自分がそれをしてくれる。
 だから、私は自由。
 否、人は皆、生まれながらに自由なのだ。それなのに、自らを拘束して、自らの手で限界を決めている。これ以上愚かなことがあるだろうか?
 すべては自問。
 それに答えてくれるのは、私しかいない。
 ここまでが、ほんの一瞬の思考。
 泡が弾けるよりも短く、宇宙の滅亡よりも長い。
 この時間こそが、生から死へのイニシエーション。
 ゆっくりと目を開けながら、私はそれを思い出していた。

2

 鏡宮かがみや翔子しょうこは、微睡みから覚めた。
 瞑想に近い、ほんの少しの浮遊感。ソファに凭れたまま、遠く落ちていた。深く綺麗な、自らの深淵へ。
 ああ、もう出発する時間だ、と鏡宮は認識する。
 時間は驚くほど勤勉で、何者にも拘束されない。目に見えない時間という概念に、我々は支配されている。それに従って生きることこそが、私たちに許された唯一の行いだ。
 そして、所謂、友人との約束が近づいている。比較的最近できた友達であり、この関係を演じている自分も、なかなか悪くないな、と感じ始めていた。
 誰かの誕生日を祝うことなど、これまでの人生で、鏡宮は経験したことがない。
 スマートフォンを見て、今日の日付を確認する。
 誕生日を祝う、という名目以外にも、いろいろな理由をつけて、小さなパーティをする予定だ。友人と鏡宮の二人だけである。いってしまえばいつもと同じなのだが、気にしないことにする。
 自転車で十五分くらいの場所に、友人の住んでいるマンションがある。
 幼い頃、自転車には乗らなかった。決して乗るなと、母親に言われていたからだ。なぜ駄目なのか、何度もきいた記憶がある。しかし、その度に返ってきた言葉は、「とにかく駄目。言うことをきいて」だった。理由を問い質すことは得策ではないと、幼いながらに感じていた鏡宮である。
 出発の時刻。
 こんな時間に家を出ることは、ほとんどない。こんな日だから、今日だから咎められない。
 二階にある自分の部屋から、一階へ降りる。
 リビングを通り過ぎるとき、「行ってきます」と声をかけた。
 両親がテレビを見ていた。その二人がこちらを見る。
「行ってらっしゃい」父が言った。その顔は赤らんでいる。もうかなりお酒を飲んでいるようだ。ロマンス・グレーの髪が少し乱れている。歳をとったな、と思う。
 母親は心配そうな顔をして、こちらを見ている。
 目元が鏡宮に似ていると、多くの人から言われてきた。くっきりとした目鼻立ちは、確かに似ている、と鏡宮は思う。高い鼻梁は、特に母譲りだ。
 ただ、母の顔立ちは、年齢にしては若すぎる。
 まったく苦労を知らない顔。
 その表情。
 その綺麗な手。
 その指。
 その仕草。
 作った笑顔を二人に向けて、玄関へ向かう。安心感を与えることも、娘の役割だろう。
 玄関の鍵をかけ、駐輪場へと歩いた。
 夜なのに、なんだか空が明るい。
 だが、いまは夜中である。そうか、皆が起きているのか。
 誰かにとっては普通の日でも、誰かにとっては特別な日。そんな日常が、この世界には溢れている。横溢しているといってもいいだろう。
 一度スマートフォンを確認する。通知はゼロ。鏡宮は、少し心配になった。これから会う友人から返事がない。
 約束を忘れているとは流石に考えにくいが、待てずにうたた寝でもしているのだろう。彼女にはそんな節がある。
 ケーキの袋を自転車の前籠に入れる。小さいものだが、二人なら充分だろう。彼女の好みに合わせて選んだつもりだった。
 駐輪場から自転車を出し、友人の家へと向かう。
 いくら着込んでいても、刺さるような寒さが全身を襲う。マフラーをぐるぐるに巻いているため、首元だけは暖かい。
 少し目線を上げると、うっすらと星が瞬いているのが見える。何年もまえの光を、いまの自分が見ている、と鏡宮は認識する。
 自分だけに向けて光を放っている、と勘違いしそうになる輝きだ。昔の人物たちが、世界は我々を中心に回っていると考えてもおかしくはない。実際の問題として、人間は自身を世界の中心として捉えることしかできない。回転している車輪のように、狭い内径の中でも、中心は中心なのだ。
 自転車を漕ぐうちに、少し躰が温まってきた。
 寒い季節は比較的好きな鏡宮である。暑い季節は、とても耐えられない。息が詰まりそうになる。
 海が近い街。
 夏になれば、全体が賑わう。祭りもある。
 賑わう屋台。
 喧騒。
 賑わう街。
 花火。
 賑わう人々。
 回想。
 ふと思う。出店でなにかを買ってもらった記憶など、鏡宮には一切ない。
 祭りには行ったことがある。だが、そのときの片手には、必ず母親の手が繋がれていた。記憶の断片には、年々近くなっていく母との目線。変わる浴衣の色、柄。
 こういったことを思い出すのは、決まって冬だ。
 静かな自分。
 冬は自身の状態が安定していると、鏡宮は感じている。
 逆に夏は、なんだか落ち着かない。
 鏡宮にとってなにか大きな出来事があったのが、総じて夏だったからだろうか。
 冬にまつわる記憶は、あまりない。
 だから、夏は長く感じる。そう感じてしまう。
 火照ってきた躰と呼応するように、それらの記憶が連鎖した。
 そんな内界とは姿見のように真反対の外界は、冬なのだということを、鏡宮は感じられないでいる。
 やはり十五分程度で目的地に着いた。
 大きなマンションである。建物のどの部分を見ても、周囲のマンションとは格が違うことがわかる。一般的にいうと、規模が大きい、高級感がある、で通じるだろう。
 いつもの場所に自転車を停める。といっても、ここへ来るのは今回が三回めだ。
 煌びやかなエントランスへ入った。
 入ってすぐの右側に、守衛室がある。その中に制服の男が二人座っている。手前の男がこちらを一瞥した。鏡宮は笑顔で返す。
 守衛室とは反対側に、郵便受けが並んでいる。鍵付きの、大きな宅配ボックスも並んでいる辺り。その横に操作盤がある。部屋番号を入力して、中の住人を呼び出すものだ。
 そちらへ行き、部屋番号を入力して友人を呼び出す。
 しばらく待つが、応答はない。
 もう一度呼び出す。
 また、応答がない。
 なんとなく、守衛室の方を見る。いまは二人ともがこちらを見ていた。今度は、なぜか笑顔は繰り出せなかった。
 操作盤の方へ向き直り、もう一度部屋番号を入力した。
 応答がない。
 やはり、寝ているのだろうか。流石にインターフォンの音には気がつきそうなものだが。中のチャイムが壊れている場合を、鏡宮は想定した。あり得なくはない。
 次はスマートフォンで電話をかける。
 乾いた電子音。
 十秒。
 二十秒。
 まったく応答がない。
 流石におかしい、と鏡宮は思い始めた。
「どうかされましたか?」男の声。
 鏡宮は、もう少しで声を発するところだった。いきなり背後から声をかけられたのである。
 振り向くと、守衛の一人が立っていた。手前に座っていた男だ。太ったその男は、笑顔をこちらに向けている。父と同じ五十代くらいだろうか、と鏡宮は見積もった。
「あ、いえ、友達が出ないんです」少し仰け反る姿勢で、鏡宮は答えた。
「お友達?」訝しげに男が問う。「君、名前は?」
「鏡宮といいます」
「うん、カ・ガ・ミ・ヤさんね」胸ポケットから手帳を取り出しながら、男は後ろの守衛室を一瞥した。「漢字はどう書くん?」
 彼の胸にはネームプレートがあり、〈立道たてみち〉と書かれている。立道は、いつの間にかボールペンを握っていた。
「ミラーの鏡に、宮崎県の宮です」短く答える。
「うんうん」立道は、名前をメモしているようだ。「珍しい名前やね。あ、お友達の名前はなんやったっけ?」
茶山ちゃやまさんです。茶山しおりさんです」鏡宮は言う。「この時間に尋ねる約束をしていたのですが、インターフォンを鳴らしても返事がありません。電話をかけても同じでした」
「ああ、茶山さんかい。六階の?」立道は何度も頷く。その度に、肉の乗った頬と顎が揺れる。
「そうです」
「寝とるんじゃないんかね?」
「いえ、それはないと思います」
「なんでや?」
「今日は、彼女の誕生日だからです」
「理由にはならんと思うけどのぉ」立道は、鏡宮が持っている袋を一瞥した。
「ここへ来た理由もそれです」
「あっそう」
「いえ、とにかく、心配になってきました」
「ふうん。誕生日やったら、彼氏とでも、一緒に過ごしとるんじゃないかね? お友達なんか放っとかれるもんやわ」立道は卑屈な笑みを浮かべる。
 これだ、と鏡宮は思った。こんな人間がいる世界と、本当の自分は関わりを持ちたくない、と。この男とは、もう一瞬たりとも同じ空間を共有したくない。
「あの、管理人さんを呼んでいただけませんか?」鏡宮は言う。
「え、なんで?」
「部屋の鍵を開けてもらいます」語気を強めて鏡宮は言った。「一応、緊急事態だと思われるのですが」
「こんな夜中には、無理やわ」
「来るか来ないかは、管理人さんが決めると思います」
「あ、ああ……」そう言いながら、立道は守衛室へ引き返した。そして、受話器を耳に当てている。
 守衛室の中にいるもう一人の男は、ずっとこちらを見ていた。立道とは対照的に、細長い印象。上背もある。シャープな顔に落ちた影は深く、彫刻を思わせる面立ちだ。
 立道が守衛室から出てきた。
「管理人さん、いまから来るらしいわ」頭を掻きながら立道が言う。
「そうですか。ありがとうございます」
「まあ、彼女、こっから歩いて五分くらいのところに住んどるからのぉ。すぐ来るわ」
「女性なのですか?」思わず鏡宮は問う。なぜか男性だとばかり思っていたからだ。
「でも、こんな日やし、べらぼうにお酒を飲んではると思うわ」立道が呟く。「俺も早く帰って飲みたいんだがね」
 鏡宮は自分の時計を見る。十二時四十五分。いつもならば、この時間はもう寝ているな、と考えた。だが、いまは少しも眠くない。
 管理人が姿を現したのは、それからちょうど五分後だった。
 ロビーへ入ってくるなり、彼女はいきなり「あら、貴女」と鏡宮に声をかけた。
 鏡宮も、「あ」と声を出した。その顔には見覚えがあったからだ。
藍子あいこさん、この子とお知り合いで?」立道が発言する。
「ええ、そうよ」立道を一瞥して、彼女は答える。そして鏡宮の方を見た。「管理人の東海林しょうじ藍子です。貴女のこと、一度見たことがあるのだけれど、貴女も私のことを覚えているの?」
 もちろん覚えている。だが、名前はいま知った。
「はい、覚えています」鏡宮は答える。
「君はなんで、藍子さんのことを知っとるの?」また立道が口を挟む。
「茶山さんのところへ遊びに来たときに、一度お会いしました」鏡宮は思い出す。「このマンションの六階、廊下だったと思いますが、そこで。茶山さんと会話をされていたのを覚えています。私は直接は話していませんが、こちらにお住まいの方だとばかり思っていました。とても綺麗な方だな、というのが印象です」そこまで喋った。
「まあ、ありがとう」東海林は微笑む。
 魔的だ、と鏡宮は思った。
「記憶力がいいのね、貴女。お名前はなんていったかしら?」
「鏡宮翔子と申します」
「ふうん。鏡宮翔子さんね」彼女はまた微笑んだ。「漢字はどう書くのかしら? いえ、立道さんがメモをしているはずね。立道さん、見せて下さる?」
「はいよ」立道が東海林に手帳を見せた。
 なんでわかったのだろう? と鏡宮は思った。メモを取るのは、彼の行動の傾向なのだろうか。それにしても早かった。
「ファーストネームは、翔ける子、かしら?」
「そうです」
「素敵な名前ね。一生忘れない気がするわ」
「あ、ありがとうございます」
「さて、それで、どうしたの?」
「さっきも言っとるんですが……」立道が言いかける。
「いえ、この子からききたいの」東海林は鏡宮の目を鋭く見据えた。「詳しくきかせて」
 鏡宮は、先ほど立道に説明した内容よりも、さらに詳しく話をした。一度言葉にしていた分、シーケンシャルかつ明瞭に喋ることができた。説明は一分もかからなかった。
「なるほどね」東海林が頷く。
 やはり、他人の家の鍵を断りなく開けるということは、それなりの責任、決断が伴うものなのだろう。必然的に、依頼人と住人の関係性も明らかにしなければならない。ただ、鏡宮の場合、茶山栞との関係を予め認知されている。そのため、解錠における彼女の心理的負担は、比較的少なく済むように思えた。
「お願いします」
「わかった、開けよう。六〇六だったわね?」
「そうです。ありがとうございます」
 東海林が、マスターキーでエントランスのドアを開けた。鏡宮が後に続く。立道も着いて来た。
鍵を開けろと言ったのは自分だが、本当に良いのだろうか、と鏡宮は心配になる。エレベータの加速度を感じる間、それは胸に渦巻いていた。
 六階へ到着する。
 今度は立道が先に出る。乗った順番とは逆になった。
 部屋の前に到着し、東海林が言った。「もう一度電話をかけてみてくれる?」
 コール音だけが鳴る。
「やっぱり出ません」鏡宮は首を振った。
 東海林が部屋のインターフォンを押す。ピンポーン、と二回きこえただけだった。
 先ほどから、あたりからは笑い声や話し声がきこえている。こんな日だから当然だろうとは思うが。
 鏡宮は東海林を見た。ほぼ同時に、立道も彼女を見た。
 彼女は頷き、鍵を差し入れる。鍵といってもカードタイプのものだ。上から入れた鍵を横へ倒して、ロックを解除した。それを知らせる音が鳴った。
 東海林が、鍵を開けた姿勢のまま止まる。
 やがて彼女はドアを引き開けた。鏡宮の方を見る。
 鏡宮は部屋の中へ躰を滑り込ませる。暗い。電気は点いていないようだ。
「栞ちゃん?」闇に問いかける。声は虚しく霧散した。
 場所を思い出しながら、電気のスイッチを手探りで探す。右の方。凹凸。スイッチを切り替える。
 一瞬で奥まで明るくなった。ただ、見えるのは玄関と廊下のみ。それより向こうは見えない。閉まったドアで遮られている。その空間だけでも充分に広い。
 靴を脱いで廊下を進む。足の裏に冷気を感じる。部屋自体も寒い。やはり誰かと出かけているのでは、と鏡宮は思った。
 廊下の左右にはバスルームとトイレがある。それぞれ覗いたが、彼女はいない。
 一度玄関の方を振り返った。東海林はシューズボックスに凭れて立っていた。立道は外にいる。この雰囲気では、絶対にいないと確信しているからだろうか。中に入ってくる気配はなかった。
 鏡宮はドアを開けてリビングに入る。こちらも暗い。やはり電気は点いていない。廊下からの光が届いているが、広い空間のために一部しか照らされていなかった。
 手探りで電気のスイッチを探す。今度は左。
 明るくなった、と思ったが気のせいだった。一つだけ電気が点いている。その光が拡散しているのみだ。他は故障しているのだろうか。
 一つだけ灯った電気。それはダウンライトだった。
 光源を見る。その光の軌跡を追うように、照らされた先を見た。
 足。
 ひっ、と短く息を吸い込んだ。
 冷たい空気が肺へ流れる。
 ソファで寝ている? そちらは段になった少し高いところにあるため、角度的に全体は見えない。だが、確かにそこにはソファがある。
 スポットライトと見紛うように、やはりそこだけが明るい。
 近づく。
 その足は動かない。
「栞ちゃん?」鏡宮は小さく言う。ちゃんと声になっただろうか。
 ゆっくりと段を登る。光へ吸い込まれるように。
 視線の角度が変わっていく。
 躰の全体が見えた。
 彼女だ。
 眠っている。
 そう思った。
 しかしすぐに、その異様さに気づく。
 目。
 目が。
 開いている?
 なにかがおかしい。
 目がない?
 いや、ある。
 どこを見ている?
 穴。
 寒気。
 血?
 血。
 この人は、私の友人?
 そう。
 呼吸が速い。
 瞬きを忘れている。
 目が離せない。
 彼女から。
 白い。
 肌が、異様に白い。
 身につけているワンピースくらい。
 血。
 目から。
 赤。
 ワンピース?
 こんなに寒いのに?
 呼吸が浅い。
 死んでいる。
 死んでいる。
 その言葉を無限に反芻する。
 真っ白。
 なにもかも。
 真っ赤。
 目に穴。
 寒気。
 悪寒。
 側でなにかが動いた。
 時計の針だった。
 一時。
 待ち合わせの時間。
 なにかが落ちた。
 ケーキの袋。
 彼女のための。
 それを見た。
 息を吸い込んだ。
 叫ぶ。
 鏡宮の内部で、なにかが瓦解した。

3

 その事件が発覚したのは、年が明けた一月一日であった。
 川崎稚香馬は、鐘谷紗由からその情報をきいた。
 その鐘谷は、兄の鐘谷冬弥とうやから事件の詳細をきいていたという。彼、鐘谷冬弥は、広島県警捜査一課の警部補である。川崎は彼とは面識があり、よく知っているといえるだろう。鐘谷から川崎に伝えられた理由。それは決して、兄から妹への軽率な情報漏洩ではなく、もちろん意図があってのことだった。それも後に判明する。

 一月十日。川崎と鐘谷は、広島市内にあるレストランに来ていた。お詫びだと鐘谷は言っていたが、川崎自身は特に気にしてはいない。その主語は、おそらくクリスマスイヴの一件だろう。
 しかし、彼女と食事に出かけられるだけでも、川崎にとっては最上に嬉しいことだった。それほど、彼女の存在は川崎にとって比重が大きいといえる。なぜかはわからない。その彼女は、明らかに白石零一に対して興味を抱いている。それに関しても、川崎は特に気にしてはいない。
 ウェイターがテーブルから離れるのを待って、話が始まる。
「絶対に口外はしないこと。いい?」鐘谷は言った。
「口は堅いですから」
 コース料理はすべて食べ終わり、いまはワインのボトルとグラスがテーブルに並んでいるだけである。そのグラスの脚に、彼女は長い指を添えている。
 広い店内に、客はまばらにしかいない。
 今日は成人の日である。街は、川崎と同じ年代の成人で賑わっていることだろう。ここは、そういった喧騒からはかけ離れた場所のようだ。
「まず、その事件は、一月一日の午前一時頃に発覚した」ゆっくりとした発音で、鐘谷が言う。「場所は宇品にあるマンションの一室。そこに住んでいた女性が、両目を刺されて死んでいた。ああ、想像するだけでも痛いわね」彼女は一度顔をしかめたが、一瞬で元に戻った。「次に、発見された経緯。被害者はその時間、自身のマンションで、お友達と会う約束をしていたみたい。まあ、元日だからね、夜中に人が出歩いていても全然不思議ではない。その友人が部屋を訪れても、まったく反応がなかったらしいの。不審に思って、管理人に問い合わせて鍵を開けてもらったんだって。そこで、死体が発見された」
 そこまで喋り、鐘谷は一度グラスを傾けた。
「なるほど」つられて川崎も一口飲む。少し視界が霞んできた。もうかなり飲んでいる。
「その友人っていうのが、H大の一年生の子なの」目を幾度か瞬かせて、鐘谷が言う。「亡くなったのは、S大の子で、同じく一年生。まだ二十歳にも満たない女性が、酷い殺され方をして、とんでもない悲劇ね」
 一瞬の間が空く。目の前のキャンドルが一度揺らいだ。
 彼女は、今日は髪をお下げにしている。童顔の鐘谷は、高校生といっても通じるだろう。ただし、彼女はこのあたりでは有名人だ。
「あ、そうそう。一つ重要なことを言い忘れていた」鐘谷は、そこで一度言葉を切る。「その部屋、密室だったの」
「は?」
「だからね、密室」鐘谷は指を一本立てた。「十階建てのマンションの、六階が現場なんだけれどね。当然窓には鍵がかかっていたし、さっきも言ったように、ドアにも鍵がかかっていた。オートロックで、エントランスには監視カメラも付いている。録画されている映像を見ても、怪しい人物は映っていないみたい。もちろん、どこまで調べているかは不明だけれどね。そもそも警備員が常駐しているから、見つからずに入ることもできないでしょう」
「ふうん。ストーカーの類ではないのですか?」
「警察も、そのあたりは重点的に調べているみたい。けれど、やっぱり、その部屋の状態が引っかかると思う」
「なるほど」川崎は、同じ言葉を繰り返す。
 アルコールのせいで、思考は鈍っている。それを自覚できた。
 鐘谷も川崎と同じだけ、いや、彼以上に飲んでいるはずである。だが、顔色一つ変わらない。
 腕の時計に目を向ける。時刻は午後九時三十分。もう二時間半も店に滞在している。
 現在のワインで、本日三本め。すべて鐘谷のオーダーだった。
「どう思う?」上目遣いに彼女がきく。
 なにを? と問いたかったが、それを口に出してしまうと、もう二度と彼女と会話ができないような気がした。なぜかはわからないが、直感が働いたというべきか。
 愚鈍になった頭で、川崎は思考をまとめる。
「えっと、まず、完全な密室はありえないと思います」川崎は結論から話した。若干呂律が怪しいが。
鐘谷は、五割くらいの笑みを浮かべている。
 よかった、ひとまずは回答を間違えなかったらしい、と川崎は思う。心の中でピース。その両指の先がナイフに変わり、なにか楕円形の立体物を突き刺す。刺したその二箇所は、他の面よりも少し窪んでいる。
 よく見ると、その楕円には凹凸がある。
 人の顔だ。そして、目。
 鐘谷の話では、凶器が何であるかは言っていなかった。
 これだ、と川崎は思った。そして、笑いたくなった。これはアルコールのせいだろうか。
 ネクタイを少し緩める。
 レストランに誘われたため、川崎は、クリスマスイヴのために用意していたスーツを着て来た。到着してみると、一般的なグレードの店であり、鐘谷も、いつものシンプルな服装だった。周囲から若干浮いているような恥ずかしさがあり、普段よりハイペースでアルコールを摂取してしまった川崎である。
「密室は、後からの装飾でそうなるだけですから」川崎はようやく言った。「そうなるように先に仕掛けるタイプもあるみたいですね。まあ、これらは白石の受け売りですけど、本当の密室はありえないと思います。俺はミステリを読まないから、よくわかりませんが。あ、そうそう、凶器ってなんだったんですか?」
「良い質問ね」鐘谷が即答する。
「あ、ありがとうございます」なぜか礼を言った。「あの、すみません。顔を洗いに行ってきます。ちょっと暑くて……」川崎は若干汗ばんでいる。
 鐘谷は左の掌を上に向け、その手を少しこちらへ移動させて、一度頷いた。
 このお嬢様、仕草がいちいち上品だ。こういうところが、とても魅力的なのである。けれど、一般人にもわかるように言葉で説明してくれたらいいのに、と川崎は思った。いまのはどう見ても、生徒に発言を促す教師のそれだ。
 必要以上に冷たい水で顔を洗い、ハンカチで顔を拭った。そして、洗面器の横に置いた眼鏡を、川崎は掛け直す。目が覚めた気がした。これでもう少し議論ができる。
 目の前の鏡を見た。眼鏡越しに目玉を刺せるだろうか、と考える。気持ち悪くなり、一瞬で思考を遮断した。
 席に戻ると、テーブルの上には水の入ったデキャンタと、新たなグラスが置いてあった。とても気が利く。店の人間か、あるいは鐘谷か。どちらかはわからないが、とりあえずその両方に感謝をして、水をいただく。
「眼鏡をかけている人の目に、ナイフは刺せるかしら」右斜め上を見ながら、鐘谷が言った。
 このお嬢様は、神通力を使えるようである。
「え? さっきの答、凶器はナイフなのですか?」
「いいえ、それがわからないの」
「冬弥さんからきいていないのですか?」
「いえ、兄もわからないと言っていたの」
「わからない? ああ、そういうことか。現場に凶器が残っていなかったのですね?」
「そのとおり。目が覚めてきた?」鋭い視線で鐘谷に見られた。
「いえ、全然……。ただ、さっきよりは、ましになりました。紗由さんは、顔色がまったく変わらないですね」
「そうかしら? ちょっと良い気分だよ」
「いつもどおりに見えますけれど……」
「アルコールをたくさん摂取しないと、この気分は味わえないのね、私の場合。ああ、ドレッドノートくらい、燃費が悪いかもしれない」鐘谷はそこでくすっと笑った。
「俺も、まあまあお酒は飲める方なんだけどなあ」
「誰と比べて?」
「外で騒いでいる、俺と同い年の……かな」
「あ、そうよね。川崎君は成人の歳だったね。けれど、その比較には意味がない」
「お酒を飲めるか飲めないかっていうのは、相対的なものでしか計れない気がしますけれど。確かに意味がないかもしれないですね」
「そのとおり」鐘谷はまたグラスを傾ける。
「成人の日に逮捕される連中も多いですよね。なにをしているんだろう?」川崎はまた水を飲んだ。
「そうねえ。ニュースを見る限り、暴れたっていうのが多いんじゃないかしら?」
「揃いも揃って、一月十日に?」川崎はちょっと吹き出した。
「そう」鐘谷も微笑んでいる。「誰かと一緒じゃないと、なにもできないの。人間の本質と同じね。殺人も、人と人。誰かと一緒じゃないとできない。殺す人がいて、殺される人がいる」
 難しいことを言うな、と川崎は思った。白石と同じ匂いがする。
「あ、そうだ。そのことですよ」
「凶器のこと?」
「そうです。また話が脱線しちゃいました」川崎は少しおどけて見せる。「警察の方ではもう、凶器の目星はついているんじゃないですか?」
「そのとおり」
「なんだ、やっぱり」川崎は水を飲む。「で、さっき僕も考えました。眼鏡越しに目玉を刺せるだろうかって。もちろん無理ではないと思います。ただ、なんで目を刺すんでしょう? 普通、無防備な喉とか心臓を刺さないですかね。目を刺すことに理由があるのか……」
「目を刺した理由は、なんだと思う?」鐘谷は、少し胡乱な目で川崎の方を見ている。
 その目に吸い込まれることを避けるように、川崎は視線を逸らす。長く目を合わせていられない。目を逸らした先にある、鐘谷のワイングラスに焦点が合う。しかし、何度瞬きをしても、そのつるりとした表面が、二箇所だけ窪んでいるように見えた。

4

 翌日、川崎は正午過ぎに目を覚ました。
 軽い頭痛。
 四肢がじんわりと温かい。アルコールを摂取した後に起こる現象だ。
 重い躰を起こす。
 手探りで眼鏡を探し、かける。
 身につけている服は昨日のまま。
 まだ眠っていたかったが、喉が渇いたので冷蔵庫へ向かう。
 冷たい水を一気に飲んだ。
 暖房がよく効いているのか、部屋が少し暑い。
 大きな欠伸をした後で、昨日のことを思い出す。白石に電話をかけないといけないことも。いや、かけないといけないことはないが、そうすることが最善だと思われた。
 だが、時間は充分にあるため、先にシャワーを浴びることにする。
 熱いシャワーを頭に当てながら、川崎は考えていた。どこから話すべきかと。
 浴室から出て、濡れた髪のまま自室へ向かう。適当にTシャツとズボンを身につけ、タオルを肩にかけた。
 ベッドに放り出してあったスマートフォンを手に取り、コールする。
「もしもし」
 五秒ほど待った後、息を切らした白石が応答する。
「もしもし、川崎だけど」
「どうしたの?」
「息が切れてるね」
「ああ、エルの散歩……。公園でね。すごく走ったから」
「ああ、そうなんだ」そう言いながらベランダに出る。「悪いね、デートの邪魔をして」
 今日は天気が良い。白石のような植物にはもってこいの日である。
「いや、エルも疲れただろうし、もう帰るところ」電話の向こうに、賑わいの声が聞こえる。「なにか話があるんだろう?」
「そうそう。近いうちに時間取れない?」
「別に、いまからでもいいけれど」
「そう言うと思った。助かるよ」川崎は、欠伸を噛み締めながら答える。
「えっと、昼は食べた?」
「食べてない。実は、さっき起きたんだ。ちょっと二日酔い」
「ああ、同窓会だろう? ご苦労なことだなあ」
「いや、行ってないよ」
「え、そうなの? 川崎、幹事を任されていると思ってたんだけど」
「まあ、その話も含めて後で話すよ」
「オーケー。時間は、何時でもいい?」
「合わせるよ」
「じゃあ、一時半に迎えに行く」
「了解。それじゃあ頼む」
「じゃ、後で」
 ふう、と溜息をつく。仄かにアルコールの匂いがした。
 昨夜はどうやって帰ったかな、と思い出しながら自室へ戻る。
 ベッドへ倒れ込んだ。
 結局、当初の言葉通り、鐘谷が支払いを済ませてくれた。
 その後、近くのバーへ移動した。店の名前は思い出せない。飲んだ酒の名前も思い出せない。どのくらい飲んだかもわからない。しかし、会話の内容は覚えている。殺人事件のことだった。なにを話していても、結局はそこに行き着いたのだ。
 そのまま夜中になった。あれは何時頃だっただろうか。タクシーを呼び、それぞれ帰路へ就いた。
 タクシーから降り、部屋へ向かうまではフラフラだったように思う。地面はスポンジのように柔らかく、踏み出した足を上手く支えられなかった。
 冷たい外気によって躰の火照りは拡散され、自身と世界の連続性を認識した。そして、速やかに脈打つ心臓は、いつもより臓器としての働きを感じられた。
 そういったことは覚えている。だが、昨日の記憶は、やはり曖昧だ。
 自分は誰で、どこから来て、どこへ行く?
 いま生きていること、その特異性を知る。彼女と話したことの大半が、そういう意味を含有するものだった。
 躰を起こし、髪を乾かす。
 準備を整え、自宅を出る。白石は時間には厳しいため、彼となにかをするときには、時間に余裕を持って行動をしないといけない。
 白石を待つ間、事件についていくつかのサイトを検索してみた。だが、それらのどこにも、昨日きいた情報よりも詳しいものはなかった。

5